- 2023.03.31
- インタビュー・対談
闇を抱えたバディが魅せる「復讐の理」――往年の傑作エンタメ小説が“新しい時代劇”に生まれ変わる! 豊川悦司×片岡愛之助
取材・構成:生島 淳
池波正太郎生誕100年記念 現代に届く『仕掛人・藤枝梅安』を
「善いことをしながら悪いことをする」
――そうした細部を詰めたうえで、梅安と彦次郎という「バディ」の関係性も熟していったわけですね。
豊川 今回の2作品は「会話劇」の要素が強いです。梅安と彦次郎が話し合うことで、言葉の向こうからキャラクターの心情をのぞかせる仕掛けになっています。その意味で、僕はこれまでに製作された梅安シリーズの中では、最も原作に近いものになっていると自負しています。実際、撮影が進むにつれて愛之助さんとの会話がどんどん楽しくなっていった感覚がありました。
愛之助 本来、映画撮影の現場では「みんなで飲みに行こう」などといったコミュニケーションがあって、そこからいろいろなものが生み出されていくと思うんですが、今回はコロナの影響でそれが出来なかった。それでも、梅安と彦次郎が酒を飲むシーンを通じて――実際はお水でしたが――ふたりでお芝居で飲みながら、楽しく過ごすことができました。
池波哲学を今を生きる観客に
――撮影中に話がどんどん弾むようになっていったというのは興味深いですね。それも、梅安と彦次郎の間に共通点があったからでしょうか。
愛之助 共通点、ありますよね。それはお互い闇を抱えていることじゃないですか。彦次郎の場合は、妻子を失い、復讐を誓った人間です。梅安と彦次郎の「瞳の奥の闇」にご注目いただければと思います。
――瞳の奥の闇。とても印象深い言葉です。梅安は鍼医者として世間の役に立っている。ふだんの彦次郎も善人そのもの。でも、仕掛人稼業に手を染めている。池波作品に通底するテーマとして、人間は「善いこともすれば悪いこともする。悪いこともすれば、善いこともする」というものがあります。この発想というか、哲学に関して思うところはありますか。
豊川 私としては、「善いこと」と「悪いこと」は紙一重だと思っています。梅安が生きた時代は、現代のように法が法として用を成さなかったケースもある時代の話ですが、人間の恨みが生まれれば、それを晴らすことを求めるわけです。それは現代でも一緒でしょう。梅安の世界では恨みを持った人たちが身銭を切って恨みを晴らそうとする。
愛之助 そこに梅安や彦次郎が存在する意義が生まれるんですよね。
豊川 「善いことをしながら悪いことをする」というのは、決して許されることではないけれど、それは江戸時代も、そして現代にも確実に存在することであって、誰もが認めざるを得ない感情だと思うんですよ。
――仕掛人は「殺人代行業」を営んでいるわけですよね。ただし、そこには理、ことわりがあることが池波作品では提示され、それが共感を生んできた。ところが、現代はコンプライアンスの時代です。闇の世界を表現するのに、ハードルが上がっている気がするんです。
豊川 それはすごく分かります。最初、梅安の話をいただいた時に、「この作品を、現代にはどう落とし込めるだろうか?」とか、「現代の観客は、この話をどう捉えるだろう?」と考えましたね。しかし、考えを突き詰めていくと、藤枝梅安が住む世界で起きる殺人というのは、すべて理由があります。その部分でお客様には共感していただけるはずだと思いました。さらに、職業として引き受けているところに、面白さがありますよね。そこに、他のダークな世界観の作品とは違いがあると思います。
愛之助 最近、私は歌舞伎でダークサイドの役柄をよくやらせていただきます(笑)。
――そう言われれば、そうですね。
愛之助 『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』ではお岩さまを殺めて、『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』では舅、『皿屋敷(さらやしき)』ではお菊、そして南座・顔見世興行の『女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)』までダークサイドが続いているんです。ただ、歌舞伎の場合は様式美をひじょうに大切にしていますから、『油地獄』であるように殺しのシーンも美しく見せる。どこを切り取っても意味のある形をお見せするというのが歌舞伎俳優の仕事です。ですから、歌舞伎では「絵」として見ていただくことを意識しますが、梅安の世界には、やはり理があると思います。それに、今回の2作品は映像的にひじょうに美しく仕上がっているので、注目していただきたいですね。
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