『心はすべて』で展開された右のような「心脳問題」に対する考え方は複雑系とカオス力学系を基盤にしています。そこでこの二つの系について、ここで若干補足しておきたいと思います。まず複雑系です。複雑系の原理として要素還元が不可能であると言われます。それを具体的に表す現象とはどんなものでしょうか。脳の発達過程に見られる機能分化、あるいは成熟脳が課題をこなすときに見られる素早い機能分割という現象があります。脳の機能分化はブロードマンの機能地図が良く知られたものですが、その他にもロジャー・スペリーらの分離脳による大脳半球の機能差も代表例として挙げられます。また、機能分割とはこの機能地図をさらに細分したもので、何らかの課題を遂行するときにミリ秒程度の速さで脳の複数の領域の神経活動が同期して細分された領域を構成することを言います。この細分は課題遂行中も課題ごとにもダイナミックに変化することが知られています。つまり、空間的なサブ領域として定義されるダイナミックな機能領域の存在が明らかになったのです。
ところで、脳においてはそれを構成する神経細胞(ニューロン)やその集合体の機能があらかじめ定まっているわけではありません。これらの発達過程と共に、また何か課題を与えられたときに、脳全体が機能するように構成要素の意味が決まり、またそれが柔軟に変化するのです。脳はあらかじめ機能が決まった要素が相互作用しているのではなく、脳というシステムが身体および他者とのインタラクションやコミュニケーションによって機能するように構成要素が決まっていくようなシステムです。ですから、脳全体の機能を要素に還元することは出来ません。すなわち、脳の柔軟な機能分化・分割による機能発現は脳が複雑系であることの証左なのです。
次にカオスです。本文でも紹介しましたが、カオス現象はこの100年間でカオス力学系として数学の中で定式化されてきました。決定論的な法則が生み出す予測不能で確率論的な現象をカオスと呼んでいます。カオスという発音は古代ギリシャ語やドイツ語、フランス語の発音です。英語の発音はケイオスですが、これは混乱や戦争状態を表しています。むろん古代ギリシャでのカオス概念は、天地創造のおおもとになるもの、秩序と無秩序をともに含む深淵としての意味がありますので、カオスという用語は必ずしも混乱だけを意味するものではないのですが、一般にはこの言葉に対する印象はネガティブなものでしょう。それで、学術用語としては適切ではないのではないかと言われてきました。学術用語として最初にこの言葉を使ったのは米国の数学者ジム・ヨークですが、彼は「周期3はカオスを意味する」という論文のタイトルとして使いました。リー・ヨークの定理として知られているものです。ヨーク自身はchaosという表現とともにscrambled sets(まぜこぜの集合)という表現も考えていて講演では使ったとのことですが、論文には記載しませんでした。しかし、その後、この定理の中で定義されている非可算集合をスクランブルド・セットと呼んで研究する人も出てきました。また、「秩序化された不規則性」など他の呼び方も提案されました。しかし、なじみやすく説明的でない表現だからでしょうか、すぐにカオス(あるいは英米ではケイオス)という言い方のほうが学術用語として定着します。リーとヨークが定義したカオスは連続写像における軌道の位相に関係しているので、“リー・ヨークの意味のカオス”と言ったりします。実際、ヨーク本人もカオスの定義はたくさんあってよいし、事実たくさんあると言っています。例えば、軌道不安定性の指標であるリアプノフ指数を使って、少なくとも一つのリアプノフ指数が正である、と定義する人もいますし、力学系のエントロピーで定義する人もいます。もっと実際的に、フーリエ変換した時のパワースペクトルにパワーの高い連続スペクトルが存在することをもってカオスの定義とする人もいます。このように、カオスの定義自体が複雑で多様なのですが、カオスは数学の中にしっかりと根をおろし、そこから新しい数学が実を結び、さらに数学以外のさまざまな分野にも新しい花を咲かせているのです。
文庫化に向けて、『心はすべて』を再チェックし、さまざまな示唆を与えてくださったのは文庫編集部の加藤はるかさんです。加藤さんのチェックをもとに、『心はすべて』を注意深く再読して、勢いのあまり少々行き過ぎた表現や時代に合わない表現などは修正しました。また、人物の生没年も複数の文献で一致しているものを採用しました。古典からの引用の箇所は出版社や翻訳者によってやや異なっていますので、基本は私の手元にある本に倣って書き直しました。これら以外の大きな変更はしておりません。加藤さんの細心の注意を払った言葉遣いの検討による編集作業に対して、ここに深く感謝いたします。
この文庫化によって、『心はすべて』がより広い読者層を得て、より多くの人たちに知的刺激を与えることができれば望外の喜びです。脳と心の関係について、読者の皆さんの考えが広がりますように。本書がその手助けになりますように。
令和5年1月26日 中部大学創発学術院にて 著者
(「文庫版あとがき」より)
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