異質なものが隣り合いエネルギーを放つ街、横浜。 かの地で生まれ育った著者が思い出を綴る。
寮を出ると、すぐ前には「おでんや」という駄菓子屋があって、自分の家のようにしていました。
私たちはなんの疑問もなく「おでんや」と呼んでいましたが、なんで「おでんや」なのかといえば、遊郭が現役の頃はほんとうにおでんを商っていたお店が、廃業とともに駄菓子屋に商売替えしたわけです。私はその店の同い齢の女の子と大の仲良しで、片道三十分はかかる小学校への路を、毎日一緒に通っていました。
その隣りの隣りあたりには、オンリーさんが家を借りていました。オンリーさんというのは、つまり、進駐軍の兵隊専用の愛人です。彼が来ているときは、家の前に大きなオールズモビルが停まっていて、私たちはめったに見ることのない大型車に群がったものです。
終戦から六、七年経っても、戦後は暮らしの傍らにあって、それは、私にとってはいまも横浜の中心地である伊勢佐木町へ行くと、よりはっきりとしました。横浜随一の繁華街であるそこには、野澤屋、松屋、松喜屋の三つのデパートが聳えていたのですが、なかでもシンボルとも言うべき野澤屋は、私たちが伊勢佐木町に通い始めた頃はまだ進駐軍に接収されていて、吉田橋の川沿いにテントを張って営業していたのです。横浜中心部は、至る処で接収を受けていました。
そんな戦後の色濃い、まだ貧しい時代にもかかわらず、あるいは貧しい時代だからこそ、私たちはよく外出しました。
私の両親は子連れどうしの再婚で、おのずと大家族になったため、母はすこしでも物が安いと聞けば、買い物の遠征を厭わなかったものです。当然、横浜の三大商店街……洪福寺松原商店街、横浜橋商店街、そして六角橋商店街は基本になりました。現在では、洪福寺は相鉄線、横浜橋は市営地下鉄、六角橋は東横線で、一度に行くのは手間ですが、当時はぜんぶ市電でつながっていて、しかも、その市電の停留場は寮から二、三分の場所にありました。アクセスという点では、いまよりも格段に便利だったのです。
実際、市電は、横浜という街を線ではなく面で結びつけていて、行けない所はない万能の乗り物でした。なにしろ、私たちは戦後のベビーブーマー世代です。寮には子育て中の家族が何組もいて、事あるごとにそろって市電に乗り込んだものでした。
定番は伊勢佐木町のデパート廻りで、私たちにとっては、野澤屋の大食堂のお子様ランチか、その前の博雅(はくが)でシウマイを食べるのが至福の時でしたが、数々の特別のイベントも用意されていました。
当時の大桟橋には、頻繁に外国の客船が寄港しました。錨を下ろすと客船は市民に船内を開放します。私たちはタラップを上がっては、ぴかぴかに輝く真鍮の手摺に胸をときめかせ、赤と白の灯台の彼方にあるのだろう異国に夢をはせたものでした。
本牧の三渓園、というといまでは原三渓がつくった庭園ということになりますが、当時の私たちにとっては海水浴場でした。庭園が尽きた崖の向こう……現在ではコンビナートが広がっている一帯が海水浴場だったのです。泳ぐ海は横浜の街なかにあって、人々の暮らしと綴れ織りになっていました。
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