中野京子『中野京子と読み解く カラヴァッジョと惨劇のローマ』

 大阪・関西万博で『キリスト埋葬』が展示され、日本でも注目度が急上昇中の画家、カラヴァッジョ。斬新な明暗法を用いた写実的な作品で一世を風靡し、ルーベンス、レンブラント、フェルメールら後の巨匠たちにも多大な影響を与えた天才画家は、血の気の多さから殺人に手を染め「呪われた画家」とも呼ばれていた――

 中野京子さんの「名画×西洋史」大人気シリーズ第3弾『中野京子と読み解く カラヴァッジョと惨劇のローマ』から、イタリアを代表する画家・カラヴァッジョの波乱万丈の物語を抜粋してお届けします。(全2回の1回目/2回目に続く

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持ち金はほぼ尽き、売るための絵を描いた

 カラヴァッジョがいつローマに到着したかは定かでない。故郷からまっすぐローマを目指したのか、途中でまたいろいろ名画を見てまわったり暴力沙汰を起こしたりして数カ月かけたのか、はっきりしない。

 いずれにせよローマに着いた時には持ち金もほぼ尽きていたようで、生活は苦しく、売るための絵を精力的に描いた。

 今でも欧米の大都市の、特に観光客の多い賑やかな通りで画家の卵たちが自作を販売しているのを見かけるように、当時のローマでもスクロファ通り界隈では絵画の売買が行われていた。そこには画商ばかりでなく目利きの貴顕もよく見に来たので、卵たちはパトロン探しも兼ねて力作を並べ、熱弁をふるって解説したし、値段交渉もした。その中に、もちろんカラヴァッジョもいた。論争好きの彼だが、さすがにこの時は喧嘩をふっかけはしなかったろう。いや、それともおかまいなしだったろうか。

 そんなローマ時代初期の作品に『病めるバッカス』がある(制作年は1594年ごろと推定)。この洒落たタイトルはカラヴァッジョ自身が考えたものではなく、20世紀初頭にイタリアの美術評論家が本作を鑑定した際に付けて、定着したもの(最近では『病めるバッカスとしての自画像』などと、説明的すぎてつまらない新タイトルも出てきているようだが)。

『病めるバッカス』

カラヴァッジョ『病めるバッカス』

 ちなみに件の鑑定家は本作の制作過程についても研究しており、カラヴァッジョが足を怪我して入院した病院で、鏡に己を映して描いたという。怪我の原因は馬に蹴られてのものだった。

 これはそう珍しいことではなかった。馬車も単騎もけっこうな速度で往来していたからだ。前者は今で言う車、後者はオートバイ。混みあう道路での歩行者との接触事故である。当時は信号もない。マナーも悪かったろう。二十世紀になってさえ、ノーベル賞受賞者ピエール・キュリー(マリーの夫)が、パリの往来で馬車に轢かれて即死している。

 さて、『病めるバッカス』だが、馬に蹴られた事実が判明する前は、マラリア説が信じられていた。劣悪な食事と住環境下だったので、罹患しても不思議はない。この土気色の顔、完全に色褪せた唇、目の下の隈は、怪我のせいというより病みあがりの状態をうかがわせる。

 一方でしかし、肩から二の腕にいたる筋肉の付き具合や、肌の色艶の良さは、とうてい病後のものではない。まるで顔だけ病化粧を施し、腕っぷしの強さを誇るような奇妙で面白い自画像だ。実際カラヴァッジョは、背は低いが筋肉質で逞しかったという。

 セイヨウキヅタの葉冠をかぶった黒髪の若いバッカスは、ローマ風の巻き布を身につけ、唇と同じほど白んだブドウを手に持って、うっすら微笑む。酒と逸楽のこの神は、ブドウから作るワインをヨーロッパ中に広めたことで知られているのだ。

カラヴァッジョの顔

 カラヴァッジョの顔の特徴である、大きく弧を描く長い黒い眉と利かんきの強そうな大きな目は、30代半ばになっても変わっていなかったことが、2002年まで使用されていたイタリアの10万リラ札を見るとわかる。

 紙幣に登場したこの顔は、自画像以外に描かれた同時代人による唯一の肖像画を元にしている。カラヴァッジョと交流のあった肖像画家オッタヴィオ・レオーニによるスケッチがそれだ。カラヴァッジョの死後、記憶をたどって描いたもので、左目の下の傷痕、いかにも洗髪していなそうな乱れ髪、逆にきちんと整えてある鼻髭と顎鬚、そしてやはり濃い眉毛のカーブが目を引く。

オッタヴィオ・レオーニによるカラヴァッジョの肖像画

 人を殺めてローマから逃亡するのは1606年、34歳なので、その前の喧嘩沙汰に明け暮れていたころの、レオーニの記憶に残るカラヴァッジョの顔がこれだった。この顔から画家という職業を当てるのは難しいだろう(その意味ではピカソもそうだが)。

 1600年頃に制作した『聖マタイの殉教』にも、カラヴァッジョは自画像を残している。画面中央の若い半裸の刺客の左後ろで、ふりかえりつつ去ってゆく髭の男だ。確かにレオーニの肖像画とよく似ている。

『聖マタイの殉教』

カラヴァッジョ『聖マタイの殉教』

 初めてのこの大作に挑むにあたり、カラヴァッジョはそれぞれの役柄にふさわしいモデルを見つけてきて、服装からポーズ、光の当て方に至るまで綿密に計算して配置した。まるで舞台の群像劇、それも幕が下りる直前の、俳優たちがいっせいに動きを止めて静止した瞬間のような、強烈な印象を与える。

 聖人殉教の言い伝えによれば――

 十二使徒の一人マタイはイエス亡き後、布教の旅に出た。各地をまわり、エチオピアに辿りつき、説教のさなかに国王を批判した。それに怒ったエチオピア王は刺客を送り、マタイは同じようにミサの際に刺し殺された、と。

 カラヴァッジョがこの伝承から構築したイメージは実に生々しい。ミサを手伝う侍童や多くの参加者、また洗礼を受けようとしていた人々が陥った恐怖とパニックで、教会内は騒然としている。

 祭壇前では若い刺客が老マタイを恫喝し、倒れた彼の手首を荒々しく掴んで、今しも長剣で刺し殺さんとする。同時に天使が雲に乗って現れ、マタイに棕櫚の葉(殉教をあらわすシンボル)を手渡そうとする。

 本来の主役は聖マタイであるはずだが、誰が見ても画面を支配しているのは、刺客の完璧な肉体美であろう。若さと悪の魅力に燦然と輝いている。

「こんな幻に打たれて死にたい」

 これに関しては、現代フランスの作家で美術評論家のドミニック・フェルナンデス作『天使の手のなかで』(1985年刊)を読んで、目から鱗が落ちるような衝撃を覚えたことがある。この本は、フェルナンデスがピエル・パオロ・パゾリーニに仮託した自伝の態を取っている。

 パゾリーニは『アポロンの地獄』などで知られるイタリアの著名な映画監督で、1970年代に町角で買った相手に殺害された(まだ未解決)。そしてフェルナンデス自身も同性愛者であることを公言している。それを踏まえた上で、作中の「ぼく」が『聖マタイの殉教』について感じた一文を読んでほしい。

「光はすべて若者の身体に注がれ、色彩も輝かんばかり。ぼくもやはりマタイと同じく目を据えてその若者を見つめた。使徒が、この死刑執行人の若さと壮麗なまでの美しさに、まるで魅入られたように呆然と(後略)」

「こんな幻に打たれて死にたいと願わないためにはまさに超人的な力が要る」(岩崎力訳)

 この視点は異性愛者の想像の及ばぬところだ。刺客が完璧なスタイルだと感心はしても、殺されるマタイの側に立ち、それどころかマタイとなりきって、「壮麗なまでの美」「こんな幻に打たれて死にたい」と思うほど強烈な性的恍惚を感じ得るなどということは。

 しかしいったんこうした視点があることを知れば、画中でカラヴァッジョがわざわざ振りかえっているのも意味がありそうだ。彼自身、「壮麗なまでの美」から目を離したがらず、「こんな幻に打たれて死にたい」と願っていたのかもしれない。同性愛者ではないかと言われてきたカラヴァッジョではあるのだし。

 それからおよそ10年後、カラヴァッジョにとってはすでに最晩年の時期に、『ゴリアテの首をもつダヴィデ』で自分を再登場させている。

『ゴリアテの首をもつダヴィデ』

カラヴァッジョ『ゴリアテの首をもつダヴィデ』

 全イスラエルを統一した、英雄中の英雄ダヴィデの若き日のエピソードだ。旧約聖書によれば、イスラエルはペリシテとの戦で敗けが濃厚になっていた。というのも敵には身長三メートル近い巨漢ゴリアテがいて、誰も敵わなかったからだ。

 そこへ羊飼いの少年ダヴィデが現れる。ゴリアテと対峙した彼が石投げ紐(Y字形のありふれたパチンコ)を取り出したものだから、ペリシテ人は大笑い。だがダヴィデがそのパチンコで小石を放つと、それはみごとゴリアテの額に命中して地面に倒す。ダヴィデはすかさず近寄り、ゴリアテの首を剣で斬り落とした。こうして戦況は逆転したのだった。

 ダヴィデがゴリアテの巨大な首を掲げる絵画は数多いが、カラヴァッジョは己をゴリアテに見立てて描いた。首は切断部から血腸を垂らし、半眼の目は虚ろで、口はだらりとあけている。眉をひそめてこの首を持つダヴィデには神聖さの欠片もなく、ローマの汚い通りを走り回っている不良少年そのままだ。

「壮麗なまでの美」からはるかに遠いこんな少年に殺されるゴリアテことカラヴァッジョ。そしてその額には、まるでカインの罪の印のようにめりこんだ石。

 本作の制作意図については、ローマの赦しを得るための「反省」画、単なる逃亡先での注文画など、諸説あるが、この絵を見る限り、彼は己の死を聖マタイのそれとは全く違う、情けないものだと予感していたかに思える。

 ※本記事内で掲載している絵画の画像は書籍に掲載されているものとは異なります。実際の絵画はぜひ書籍でお楽しみください。

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