お順の恋愛は、生きていくパワーに比例して、特に激しい。生涯を左右したのは、初恋の相手である剣士の島田虎之助だ。童女の時に一目、見ただけで心を奪われた。その場面から、少し引用しておこう。
〈順は虎之助に剣士の凄味を見たのだった。抗いがたい宿命が頭上に落ちてきたような予感がしたのかもしれない〉
人と人が出会う偶然が、運命のような必然に転じること。これも恋愛の醍醐味である。
しかし、虎之助とは結局、結ばれずに終わってしまう。その後に嫁ぐことになったのは、幕末の思想家で兵学者の佐久間象山。諸田による彼の造形も興味深い。
象山は人を見下す、おごり高ぶった男だ。しかし、学問に優れ、洋学の第一人者でもあった。その門下から数多の人材を輩出している。
この随分と年上の自信過剰の男とお順の関係が印象的だ。お順は急死した虎之助の穴を埋めようとするが、もちろん、そんなことはかなわない。
お順の人生ではもう一人、どうしようもないヤクザな男が現れる。胸の奥の薄暗い場所で、彼にひかれてしまうお順が切ない。諸田がその心を分析し、解釈するのも、読みどころの一つだろう。
お順という、瑞々しい感性を持った勘のいい女性は、読者にとって鋭敏な歴史探査機の役割を果たす。
惑星探査機が宇宙の未知の姿を私たちに知らせるように、お順は幕末・維新という複雑な時代の生々しい息づかいを直接に教えてくれる。お順が物事を見据える確かな目を徐々に獲得していくこともあって、読者も冷静にこの時代を眺め、ひいては歴史を見渡せるようになるのだ。
激動期を彩る群像が次々と登場する。お順の目に映る彼らの姿は独特だ。
たとえば、土佐から出てきた坂本龍馬はこんな具合だ。
〈すらりとした体つきの明るい眸(ひとみ)をした若者は、まさに好奇心のかたまりのように見えた〉
〈頼むと言いながら、いつという約束はない。ただ愛嬌のある笑顔を見せただけで離れていった男は、他の塾生たちとはどこかちがっていた〉
次は長州の高杉晋作。
〈長い顔に広い額、眼光は鋭く、への字に曲げた唇は不満のかたまりのようだ。いつ爆(は)ぜるかわからない、かんしゃく玉のような激しさである〉
吉田松陰、土方歳三、山岡鉄舟らも姿を見せる。お順はこれらの人物のいずれにも、心理的な距離を置き、観察している。そのために、この探査機がとらえる彼らの肖像は、随分と立体的だ。
そして、誰よりも太い輪郭でとらえられるのが、ヒロインの兄である勝海舟だ。西郷隆盛とともに江戸城の無血開城を実現した海舟は、明治維新最大の功労者の一人だろう。
お順はこの兄から、深い影響を受けている。だからこの長篇全体に、海舟の歴史観や人間観が色濃く反映されている。
「がまん」が足りない吉田松陰や高野長英。地方に蟄居させられたために状況について行けず、観念的になってしまった佐久間象山。彼らを反面教師のようにしながら、海舟は対照的に視野を広く持ち、時代の動きを読み取り、大所高所に立って、「がまん」強く政治に向かう。このリアリズムこそ、明治という時代が持った最良の精神なのだろう。
和して同ぜず。怨まず争わず。しかし迎合しない。
読後、そんな海舟の生き方が、いやに記憶に残るのはそのためだ。
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