おめえ、ヘソあるじゃねぇか
本書の冒頭でヘソ論争が紹介される。バチカンのシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロの「天地創造」に描かれたアダムに、ヘソがあるべきか否かという問題だ。アダムは母親から生まれたのではないから、ヘソはないはずである。そのとおりだが、いままで考えたこともなかった奇抜な問題だ(実は「ある」:おめえ、ヘソあるじゃねぇか)。
本書によると、これは、未だに決着がついていない神学上の大問題だそうだ。ヘソ存在派の主張の根拠は、「神は自らに似せて人間を作った」という聖書の記述だろう。そうだとすると、母親から生まれたのでない神にヘソがなければならない。これは、「人間が自らの姿に似せて神を作った」ことの証拠になってしまうのではあるまいか? そうなると、コトは重大である。それを否定するには、(聖書にはそう書いてないが)「はじめにヘソありき」と主張しなければならなくなる。何と深遠な問題!
十字架上のイエスの絵ならいくらでもあるが、「十字架からイエスが見た(はずの)光景」を描いた絵があるので、びっくり。イエスを見上げる人々が詳細に描かれている。聖母マリア、マグダラのマリア、福音書の記者ヨハネ(ずいぶん若い)等々。この絵を見たら、誰でもヨハネ伝福音書を読み直したくなる。こんな構図を考えついた画家にも驚くが、それを見つけてきた著者の博識にも驚く。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、マリアの処女懐胎を信じていなかったそうだ。受胎告知の絵に、その証拠が隠されているという。
ニーアル・ファーガソンは、『マネーの進化史』の中で、「ラーマ家の東方三博士の礼拝」を、「メディチ家の礼拝だ」とし、数代前までケチなギャングと選ぶところのなかったメディチ家の人々が、神と同列になった次第を説明している。本書の表現は、「有名人との記念撮影」。