二月八日に開かれた芥川賞の最終選考委員会の集まりで、「素直に美しい作品」と佐藤春夫が述べれば、「的確な抒情味の作品」と河上徹太郎は語り、川端康成が「清風の楽しさ」と言って、「雁立」を選ぶことになったのは、必然の成り行きだった。
そして三月十日の未明に「文藝春秋」を印刷する共同印刷の下谷工場、そして本所工場も焼かれた。刊行が遅れ、その揚げ句、五月二十三日の深夜に小石川工場が焼かれ、万事休した。「文藝春秋」が再刊されるのは十月号になってである。
そのあいだには、二百二十万戸にものぼる住まいと地域社会が灰となり、五十万人もの老幼男女が殺され、沖縄では十万人にのぼる一般住民が犠牲となった。軍は解体し、帝国は瓦解し、名誉と希望は地に堕ち、自己犠牲と奉仕は無に終わり、愛する息子、夫を失った悲嘆だけが残った。
そしてもうひとつ、怒りだった。あのような愚かしい戦争をどうしてしてしまったのかという怒りの感情は、悪者探しとなった。東条英機を筆頭に、かつての権力者を非難して、鬱憤を晴らすことになった。そのような文章も載っている。
作家の玉川一郎の十一月号に載った「敗戦日記より」の八月中旬の一節を見よう。召集され、宮崎の海岸にでもいた男子駅員が職場に戻ってきてのことであろう。「女子駅務員の姿次第に少し。これだけは敗戦による明朗とでも言わんか。戦う生産人に朝っぱらから不快感を与えたる筆頭なり」
それでも憤懣(ふんまん)は収まらず、つぎのように付け加えた。「将来その履歴書に駅務員の経歴の記載しある女子には一切の便宜及び好意を示さずと決意す。同感者多数」
だが、娘たちから笑顔を奪い、片意地にさせ、とげとげしい態度をとらせるようにしたのは、駅を利用する人たちに責任があった。
憎々しげな小娘にたいする小さな腹立ちはともかく、多くの人びとの胸のなかの不安の色濃い大きな疑問は、日本がこの難局から抜け出すのはいつになるのかということだった。だれもが明日の日本の像をはっきり頭に描くことができず、自信を喪失した人びとはそれを論じる勇気がなかった。
自国の明日を直截に論じていたのは、大公報の特派員、中国人の宋徳和だった。河上徹太郎の問いに答え、「自分は中央政府を全面的に支持するわけではないが、思想的にも独裁を目指す中共が勝利を得れば、中国には自由も進歩の余地も全くなくなる」と冷静に語っていた。
宋徳和のこのインタビューは十二月号の白眉であろう。私は今しがた、これを読み終えたとき、戦争はたしかに終わったのだと改めて思ったのである。