インタビューほか

向田和子インタビュー 向田邦子の言葉に支えられて

烏兎沼 佳代 (構成)

姉と妹の「没後三十年」

 親にも聞いてはいけないことや、言ってはいけないことがある、と私は小さいときから思ってきました。どうしてかは分かりませんがきっと、家の中にそういう空気があったのかもしれません。

 いまになってその理由を考えると、父が私生児だったことと関係しているように思います。シングルマザーという言葉が日本で使われるようになるずっと以前のことですから、私生児という言葉そのものに今とは違う時代の感覚がついてまわったと思うのです。

 母は、「私は馬鹿やったなあ」などと、死ぬ間際に冗談交じりに言っていたのですけど、父の出生の事情など全く気にしないでお見合いで結婚を決めました。

 母が父との結婚を決意したのは、「向田敏雄という1人の男がいて、親1人子1人で、とても自立した、しっかりした人だ」という紹介者の一言。子供の頃に裕福だった自分の実家が、父親の優しさが災いして保証人の判子を押したばかりに破滅して苦い思いをしたので、男の人ははっきり「イヤだ!」と言える強い人がいいと思っていたこと。それと、会社勤めの月給取りがいいんじゃないかと思った。そんな理由で一生の伴侶を決めました。

 結婚して相手の人生の蓋を開けてみたら、いろんなことが分かって、こんな人生ってあるんだ、こんな人っているんだ、と驚いた。驚いた次に、母は何を思ったか。「こんなに親の愛情を知らない人がいるのだから、その愛情を私たち家族がきちんと補ってあげたい」と思った。それが母向田せいでした。

「敏雄さんがイヤがるようなことは、あなた方が言うべきではないよ」

 という無言の戒めが家の中に充満していたのでしょう。「お父さんって、人間としていろいろ欠点もあって、家の事情で苦労もしたけど立派な人だよ。人間にとって、生い立ちは関係ないことだ」というルールを母が決め、何事も父を優先するという空気感が私が生まれたときにはもうあったような気がします。

 私は小さい頃は、怖くて五月蠅(うるさ)い父だな、と思っていましたから、小学校の頃からわからないことは全部、親より邦子に聞いていました。

 洋服の採寸でくすぐったがって笑う私に「笑ってちゃ、できません」とぴしっとけじめを教えてくれたのも邦子でした。

 ある時は父親がわりにもなってくれました。

 小学校のとき、先生にどうしても腑に落ちないことをされたことがあるのです。小学校6年の1学期、5月に仙台から東京に来たばかりのとき、授業が終わって家に帰ろうとしたら、雨がジャージャー降りになった。私の家は学校の近くだったので蛇の目傘を5、6本あるだけ小脇に抱えて家から持ってきて先生に渡すと、「こんな蛇の目なんてさせないよ」とちょっと気色ばんで言われた。自分ではいいことしたと思っているのに、まったく受け入れられないことがショックで、家で黙っていると、姉が飼い猫の背中をゆっくりなでながら、「今日、和子ちゃん、どうだった? 何かあった?」とのんびりした口調で聞く。私が理由を話すと、姉は、

「大人でも、子供でも、人間としての好き嫌いもあるし、感情の起伏もあるし、価値観もあるから、それは先生にとって、あんまりご機嫌がよくなくて受け入れられなかったことなんだけど、あなたのやったことは大変いいことよ」

 と言ってくれたのです。「子供も、先生も、同じ人間」ということを私は小学校の6年の夏に20歳だった姉に教わりました。これは、私にとってとても大きな出来事でした。

 人間は、「あなたのことをきちんと見ているよ」という誰かがいると、人生をとてものびのびと歩んでいける。私にとってはその人が向田邦子だったということです。

 こんなこともありました。6年生のときに、学期末に頂戴して帰る通信簿の一筆欄に、「積極性に欠ける。云々カンヌン」と書いてあった。それに親が返事を書いて戻すのですが、母が父親の出張があったりで忙しかったので、邦子に代筆を頼んだのです。書いてくれた一文が、

「やや積極性は欠けますが、やらせれば、最後まで責任を持ってやり遂げる子です。」

 私はめちゃくちゃ嬉しくて、この時、(いつか邦子のために何かをやれる私でいたい)と心に決めました。この思いは今でも同じ。一生涯変わらないと思います。

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