しかし決して冷静になった訳ではなく、正気づいた訳でもなかった。あの時の精神状態をたとえるならば、『変な形で肝が据わった』というのが一番近い気がする。腹をくくった死にゆく兵士のような、奇妙な落ち着きと奇怪な高揚が全身を包んでいた。高揚を成しているのは冷たい怒りであり、怒りを成しているのはひりつくような渇きの感覚だった。
では一体何に対して高揚しているのかと思い、繰り返し思考を巡らせ、やがて気付いた。女に対してではなかった。女や、彼氏らしき男の背後に潜む、得体の知れぬ何かに対してだった。それが「悪」や「敵」、「障害」といった意味合いを含んでいるのは分かったが、あまりにも漠然としておりうまく『焦点』を合わすことができなかった。ただ「では、どうすればいい?」と自問すると「戦うべきだ」とすぐに自答した。さらに「どうやって?」と自問すると「みんなで」とまたすぐに自答した。
同時に僕は一枚の絵画を想起した。ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』だった。
フランス国旗を持ったマリアンヌが民衆を鼓舞する勇姿が眼前に浮かび、その顔が自分の顔と重なった。革命か、と思い「革命か」と思わず声に出して呟いた。現代の日本で革命を起こすなど通常なら一笑に付すところだが、その時は可笑(おか)しくもなかったし、さらに怖くもなかった。ただやれるだろうか? と思い、すぐに、とにかくやってみよう、と決心した。自分は現代に出現した男版のマリアンヌだと思うと不思議と不安は消え、代わりに己の体がいびつな銃弾と化したような、あるいはねじ曲がった剣に変化したような自己犠牲精神が沸き上がってきて、民衆のためなら真っ先に死ねると思い、同時に死ななくてはならないと思った。
僕は革命の想念に夢中になり、帰路も、帰宅してからも、就寝時も絶えることなく思考を巡らせ、想像の翼を広げ続けた。そして一九九七年秋に勃発した世に言う『大宮革命』が見事成功し、大宮市役所前に集結した歓喜に沸く数万人の民衆に手を振って応えたところで、僕はようやく眠りに落ちた。翌朝目覚めた時、全ては泡沫(うたかた)の夢となって雲散霧消し、ただの名もなき一市民に戻っていたのは言うまでもない。
しかし僕はあの夜、ほんの一瞬ではあったが確かに『革命』を体験し、その正体というか、はらわたのようなものを探りあてた。『革命』を僕なりに定義付けするならば「『持てない者』が『持てる者』に対して行う、度を越した『八つ当たり』」となる。これが全てであり、これ以外のなにものでもない。
あの時僕を包んでいた高揚とは「お前らばっかりイイ思いしやがって」という純度一〇〇パーセントのひがみ根性であり、冷たい怒りとは「どうせ俺なんか相手にされねぇんだろ」という居直り的な糾弾、ひりつくような渇きとは「俺もあの位いい女と好き放題ヤリたい」という低俗な性的欲求でしかなかった。言い換えるならばそれらの圧倒的な『逆恨み精神』を、支配階級や国家権力、社会的イデオロギーなどの小難しい言葉でうまくコーティングして民衆の心をゲットした者が革命のヒーローとなるのだ。
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