浅田 当時も営業はされていましたか?
高橋 もちろんです。三味線や太鼓の音を子守歌にして育ちました。芸妓さんたちは交代で僕をおもちゃみたいにかわいがってくれました。
浅田 うーん。すごい。
高橋 祖父も父も夕方になったらどこかへ消えてしまう。お客さんが来はって、店の中で男がうろうろしてたら色気がないって追い出されるんですわ。
浅田 毎晩、遊びに行かなきゃいけない。それはうらやましい(笑)。お茶屋さんも当時は隆盛を極めたんでしょうね。
高橋 二十軒くらいでしょうか。結局、うちが最後の一軒です。芸妓衆もどんどんやめて、平成元年にゼロ。太夫もとうとう二人。それで、うちが置いたんです。
浅田 千年の文化が途切れるかどうか、風前の灯だったわけですね。
高橋 ところが祖母は、「古川に水絶えず、心配せんでもええ」言うて死なはった。
浅田 首の皮一枚の文化。吉川英治文化賞級ですよ。そのとき残った太夫さんも偉い。
高橋 でも、芸は次の人につなげなかった。置屋が違うからつなげないんです。
浅田 では僕が拝見した「仮視(かし)の式」は、輪違屋流だったんですね。貴重なものを見せていただきました。
高橋 そうです。今は先輩の太夫さんが新しい太夫さんに教えますけど、昔は置屋が違えば商売敵(がたき)ですから、何も教えてもらえません。
浅田 いい話ですねえ。そのころでも、お客さんが太夫に逢状(あいじょう)を届けるしきたりはあったんですか。
高橋 ありました。先生のご著書にも出てきましたね。角屋さんから輪違屋の太夫に逢状がかかる、っていうシーン。
浅田 はい。描きたかったのは、奥ゆかしさ。逢いに行ってあげる、という男女の妙。幕末の京都は、武士の数が爆発的に増えます。尊皇攘夷の志士たちが集まり、京都守護職が上洛する。藩邸ができ、何千人もの侍を引き連れてくる。そういう武士たちが流れて、島原も変わってしまった。それまでは、やんごとない人たちの高級な遊び場だったのが。
高橋 ええ。明治維新で御所が東京へ移ったのも大きい。太夫さんたちはお得意さんを失ったんです。
浅田 新選組のような、礼儀を知らない乱暴者が諸国から集まってくれば、島原も荒れますし。
高橋 壬生浪(みぶろ)に芸を見せたってわからへんでしょ(笑)。
浅田 尊皇攘夷で一変した島原ですが、今年はまた大きな変化が訪れたんじゃないですか。
高橋 だれも歩いとらんような島原に、毎日千人も観光客が来はんのやもん。すごいわ、NHK(笑)。京都市観光協会は、昨年からノリノリやから。
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