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東大生が体験した「8月15日」

東大生が体験した「8月15日」

文:立花 隆


ジャンル : #ノンフィクション

平賀総長が生んだ第二工学部

 ここに紹介した第一工学部のほかに、東大は昭和17年に千葉市に第二工学部を創設した。これは、戦時体制下の技術者不足を見越した平賀譲総長が軍部の協力などを取り付けて急遽決定したもので、15万坪の広大な敷地を有していた。しかしながら、戦時下の物資不足も重なって、「開学当時使用できた建物は延約2,300坪に過ぎず、一つの建物に二つの教室が同居せざるを得ないものも」(『東京大学第二工学部史』東京大学生産技術研究所編)あるほど急ごしらえのスタートだった。

新型ミサイルの実験成功

 第二工学部の学生の多くもまた、戦時体制のもと、兵器の研究などに動員されていた。たとえば、当時第二工学部機械工学科の3年生だった小澤七兵衛(元島津製作所専務取締役・元島津メディカル社長/昭和20年卒)は、新型ミサイルの研究に従事していた。

「入学は17年10月1日で、第二工学部では2期目にあたります。本郷にある第一工学部と、千葉の第二工学部は、学科の構成はおなじで、どちらへ行くかは入学後に大学が振り分けました。生徒の質に差が出ないように配慮していたと聞いています。定員は機械工学科の場合、第二工学部60名、第一が78名でした。

 1年生のときは普通に授業を受けることができましたが、昭和19年の5月ごろから学徒動員で、航空研究所(目黒区駒場)に出ました。クラスのなかでは、工場へいった人もあれば、陸軍や海軍の研究所へ行った人もいます。航空研究所は組織的には同じ東大の一部だったので、私は学生として実験もさせてもらえました。世田谷の梅丘に下宿して、その後は千葉のキャンパスには、卒業論文提出など数回しか足を運んでいません。

 航空研究所で行っていたのは、ほとんどが軍事研究です。私は、隼戦闘機を設計し、戦後に日本のロケットの父といわれる糸川英夫先生の研究室に勤務して、陸軍航空技術研究所の委託によるロケットやミサイルの研究に携わりました。ミサイルは飛行機から投下すると敵の発する熱や音を感知して、軌道を修正しながら標的に向かって飛んでいくというものです。熱線感知方式を『ネ号』、音響感知方式を『ト号』と呼んでおり、私はその弾道図を、手回し計算機で作成していました。

 特に研究が進んでいたのは、敵艦船の高射砲の音を標的にしたト号です。20年のはじめころ、茨城県の阿字ヶ浦近くにあった陸軍射爆場で実験を行いました。よく晴れた日で、砂原の向こうに海が青々と広がっていました。飛行機が現れると地上の爆薬が点火されてボンボンと大きな音を立てました。飛行機から切り離されたト号が落下をはじめると、糸川先生が『制御板が動いている』と述べられ、まもなく見事に標的に着弾しました。実験の成功に、私も大変興奮しました。

 航空研究所は航空、機械、そのほか、各研究室の所員がだいたい20人くらい、それに、それぞれ研究員がついておりましたから全体で約200人いたと思います。軍事機密が多いので、特高の憲兵2名も来ていました。

 そのような関係で広島に落ちた新型爆弾が原子爆弾というのは分かっていたし、沖縄の那覇が壊滅したことも、米軍が飛行機から撒くビラに載っていた空襲前と空襲後の写真をみてわかっていました。先生のなかにも『いまのままでは負ける』と、口外してはっきり言っておられる先生もおられました。

 それでも、玉音放送はものすごくショックでした。研究所で聞いたのですが、玉音放送自体は、あまりよくわからなかった。ただ、戦争が終るということはわかりました。日本は神風の国で負けることがないと聞いて、『絶対勝つんだ』と、国民こぞって頑張っていただけに、がっくりしましたね。

 所長の中西不二夫教授も、落胆した様子で挨拶しておられました。

 戦後、GHQの命令で航空機の研究は停止になり、航空研究所も昭和21年3月に理工学研究所となり、幾度かの組織変更を経て、昭和62年に東京大学先端科学技術研究センターとなりました。さらに2001年には東京大学生産技術研究所も移転してきて、今日に続いています」

地下飛行機工場を構築

 広瀬誠二(元いすゞ自動車勤務/第二工学部航空原動機学科/昭和20年卒)は飛行機の地下工場を造る仕事に従事した。

「私達は1年が終ったところで、海軍委託学生として航空廠に派遣されました。私は当時、千葉県木更津の巌根にあった第二海軍航空廠の巌根工場に配属されて、1年足らずで終戦を迎えることになります。

 航空廠は爆撃こそ受けなかったものの、グラマンの機銃掃射を受けたことはあります。

 我々の仕事は実際に飛行機を造ることよりも、地下工場を造ることが主体でした。地下に工作機械を引き入れて、最後まで飛行機を造り続ける計画でした。地下壕の支えになる坑木を伐採する仕事の隊長をやらされたわけですが、実際に作業をする人たちのなかには、朝鮮の方だとか、軍隊の中で違反をして営倉にはいっていた人たちもいました。それを学生が指揮して山の中へ入っていくわけです。

 7月ごろには地下壕の作業の目処がつき、入隊間近ということで、木更津に戻って待機をしていました。戦局は直接聞いておりませんけども、いつ上陸してきて、その対抗策はどうかということについては、それぞれの上官から聞いております。私は9月に浜松の浜名海兵団に入隊することになっていました。1年前に任官した先輩の話では、『秋水』という日本の開発したロケット攻撃機の試験をやるということでした。その結果如何は非常に気になっていたのですが、残念ながら失速したと聞かされ、がっかりした覚えがあります。

 8月15日は招集がかかり、何か放送があると上官から聞きました。みんな、決戦のときを迎えて、『各員奮励努力せよ』ということであろうという気持ちでいっぱいでしたね。当日は非常に暑い日でした。しかし放送の内容は、全然わからない。放送施設の関係もあったと思います。遠いですし、妨害電波も入ったと思います。降伏なのか、奮励努力せよということなのかわからぬまま1日たって、上官から終戦を聞かされました。

 混乱が心配されたのですけど、海軍は比較的冷静で、騒乱が勃発したことは無かったですね。その後1週間ぐらいおりました。それはなぜかというと、いろんなところから来ている人がいますから、まず作業員を優先する処置をしないといけないと。我々は後回しであったということです。それぞれが帰るときに、海軍がいざというときに備えてもっていた資材を配分する指示もありました。その間は茫然自失で今後なにをすべきか、虚脱症状になりましたね。1週間の間、生きる歓びというのは全くなかった。夜も寝たのか寝てないのかわからないような状態でした。

 9月に入隊の心構えでいたものですから、自分自身としては学生としてやるべきことを十分できないうちに軍隊で働かなければならない。軍隊では上官の命令に従うのが本分で、自分自身の将来の目標に従って云々ということは全くあり得ませんから、学生としても中途半端なまま卒業し、軍隊としての夢は断たれたということになりました」

 戦争体制下に生れた第二工学部は、昭和23年4月の入学をもって募集が打ち切られ、生産技術研究所となった。

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