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東大生が体験した「8月15日」

東大生が体験した「8月15日」

文:立花 隆


ジャンル : #ノンフィクション

医学部薬学科と毒ガス

 終戦時、本郷のキャンパスに最も多くいた比率が高いと思われるのは、医学部だ。特に医学科は軍部にとって前線へ送り出す医師の養成は重要であり、一通りの知識を身につけるには時間もかかる。当時1年だった細谷憲政(財団法人日本健康・栄養食品協会理事長・東京大学名誉教授/医学部医学科/昭和24年卒)は「半年間で前線へ出せるように速成教育されました」という。

 では、医学部薬学科はどうだったか。実験室で研究に没頭するなど本郷キャンパスにいた学生は多い。

学校とは名ばかりの惨状

「8月15日は実験室にいました。前の日までには、風評で敗戦の放送があると知っていました。安田講堂に行ってラジオで玉音放送を聞き、これで空襲の心配をする必要がなくなった、と友人と話をしたことを覚えています。学校の雰囲気としては、動揺した様子はなく、淡々たるものであったと思います」(高畠英伍/元摂南大学教授/医学部薬学科/昭和22年9月卒)

「ふだんどおり学校に行き、安田講堂でラジオの玉音放送を聞きました。音がよく聞こえず、何を言っているのかわかりませんでした。放送後も学校はいつもどおり平静で、変わりはありませんでした」(佐藤正常/元三菱科学勤務/医学部薬学科/昭和22年9月卒)

「安田講堂で玉音放送を聴いた記憶があります。敗色が濃いということは感じていました。空襲の翌日は大学が休みになっていたのですが、そのうち連日のように空襲があり、大学も休みにするのをやめていました。薬学科は薬物や危険物を扱っていたので、それらを守るためにも、何日かに1回の宿直がありました」(藤原邦夫/元藤原薬局勤務/医学部薬学科/昭和22年9月卒)

「兄が短期現役で海軍にいましたので、8月15日に敗戦の放送があると聞いていました。学校には行かず、自宅でラジオを聞きました。当時は、すぐ上の学年は動員、その上は戦地に行っていたので、学校に残っているのは我々1年生だけでした。空襲でガラスや薬は焼け、器具も医療品もなく、水道もだめになって本富士警察署の裏のポンプで水をくんでいました。電気も使えないので、練炭ストーブで蒸留していました。学校とは名ばかりといった感じがありました」(喜谷喜徳/名古屋市立大名誉教授/医学部薬学科/昭和22年9月卒)

防空壕での猛毒製造を研究

 専攻内容が内容だけに、毒薬や毒ガス作りにかかわることもあった。

「日本橋の自宅が空襲で焼けたので鎌倉に疎開していたのですが、8月15日は、『ポツダム宣言にもとづいて大事な発表がある』と聞き、大学に向かいました。学校に着くと、先生に『バカヤロー、何で来たんだ! 鎌倉に帰れ! 東京は焼け野原だし、そのうち戒厳令で交通が動かなくなる』と言われました。帰路につき、大船駅で電車の乗り換えを待っていると、重大放送が始まると知らせがあり、乗客はみなホームで静かに待っていました。しかし、放送はいつまでたっても始まらないのです。後から聞いた話では、大船にいた海軍が放送を抑えたということです。

 終戦の前年の3月ごろ、防空ごうの中でもトリカブトから迅速に大量の毒物を精製できる方法を検討しろと教授に言われました。教授は軍と緊密に連絡をとっていたので、何かの指示を受けていたのでしょう。米軍が来たとき、徹底抗戦することを想定していたのだと思います。軍の人に『何の目的ですか』と聞いたところ、『そんなこと聞く必要はない!』と言われました。実際に毒物の精製はしましたが、大量に生産するというのは難しかったですね」(玉置文一/元科学技術庁放射線医学総合研究所薬学研究部長/医学部薬学科/昭和22年9月卒)

富山で毒ガス製造

「終戦時は、陸軍医薬科に配属されていて、山梨県の笛吹川上流の山奥にいました。そこには、茨城県出身で満蒙開拓団として渡満するはずだった人たち約160人がいて、一緒に整列してラジオで玉音放送を聞きました。何を言っているのかわかりませんでしたが、間もなく、戦争に負けたことがわかりました。

 勤労動員は、昭和19年の秋から始まりました。神奈川県山北にあった化粧品工場で、過酸化水素を80%に濃縮してロケット燃料にする作業をクラス全員が24時間態勢でやっていました。この燃料は、後に沖縄戦で使われたと聞いたことがあります。
昭和20年になると、富山県新湊にあった十條製紙に間借りした第六技術研究所に行きました。そこでは毒ガスの研究を行っていたのですが、軍の人から絶対に口外するなと言われました。

 そこには1週間ぐらいだけいて、他の3人とともに甲府の陸軍医薬科に委託学生として配属されました。場所はいまの山梨大で、6月に空襲で焼けたため、笛吹川上流に移動したというわけです。薬草づくりなどもしていましたが、生きるために食べ物をつくるということが主な仕事でした。食料はなくなり、赤痢が流行していました。無医村でしたから、医者のようなこともしていました。

 富山の研究所に残った学生は、毒ガス研究を手伝ったのではないでしょうか。戦後になっても誰も話しませんでしたし、聞きませんでした」(木村久吉/元石川生活協同組合理事長/医学部薬学科/昭和21年9月卒)

原爆に遭遇

 原爆に遭遇した学生もいた。

「昭和20年4月から広島県賀茂海軍衛生学校にいたので、8月15日はそこで迎えました。玉音放送は校庭に整列してラジオで聞きましたが、よく聞こえませんでした。戦争に負けたとわかると、精神的なショックで血尿が出ました。

 私は、優秀な人材を戦地に送らないようにと、文部省が同級生35人のなかから選んだ『特別研究生』2人のうちの1人でしたが、当時の雰囲気では戦争に行かないことを志願することなどできず、私もすすんで短期現役(短期の訓練だけで現役の兵隊になること)を希望しました。徴兵検査と試験を受け、クラスの3分の2ぐらいが賀茂に行きました。

 学校は、江田島の海軍兵学校が満員になったので、薬剤師と歯科医師のためにつくったものです。ほふく前進や軍刀術などの訓練や、講義がありました。

 私たちは、早く任官してもらって前線に行きたいと思っていました。しかし、予定されていた南方への配置は、前線がなくなって見通しがたたない。ある日、みんなで教官に対し、早く戦場に送ってくれるよう要望したんです。すると、『軍人たるもの言われたことをやればいいのであって、要望などするものではない』と、こっぴどく怒られました。

 広島の原爆も賀茂で見ました。学校にいると、前の校舎がパッと青白く光ったんです。こんな明るいときにフラッシュをたくなんてどんなバカな写真家かと思っていると、ドーンという音が聞こえ、キノコ雲があがりました。当時は『光線爆弾』と呼ばれ、白い服を着ていれば大丈夫と言われていました。

 敗戦を聞いて血尿が出たので、病院に入院し、8月下旬に豊橋に帰りました。帰るときは、自殺用の青酸カリをもらいました。田舎で百姓でもやろうかと思っていたのですが、新聞で東大がGHQに収用されるという記事を読んで(実際には回避された)、最後の奉公だと、大学の引っ越しを手伝いに東京に行きました。そこで私の恩師に会い、薬学の勉強を続けることを勧められました。私が『しかし今まで、薬学の勉強なんて全然していません』と言うと、先生に『これからすればいいんだ』と言われました。そうして勉強を続けることになったのです」(田村善蔵/東大名誉教授/医学部薬学科/昭和20年9月卒)

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