それぞれの戦後
幸運にして生きて復学をとげた学生たちには、卒業後も様々な苦難が待ち受けていた。
ここではまず、黒田善雄(東京大学名誉教授・日本アンチドーピング機構会長/医学部医学科/昭和24年卒)の証言をひきたい。
「終戦後大学にいったのは、9月1日からです。9月から全部やり直して授業を受けました。終戦の思い出として印象的なのは、ラジオで『スターダスト』が聴こえてきて、『これで終ったんだ』という実感がしました。2、3日あとだったと思いますが、まだ進駐軍が来ていないですからね、どうしてこういうのが流れたのか。
高等学校では3分の2が勤労動員ですから、英語はなんとかできますけど、その他の語学や物理学や化学といった方面では、医学部に来てから学力がないことに気がついて、大変困りました。中学の教科書をひっぱりだしてきて、もう一度勉強しました。口頭試問でおこられたんです。運動生理で不可欠な電気のことなんかわからなかったものだから、『あなたは、中学校からもう一度勉強した方がいいですよ』って。医学部で必要な有機化学も習っていないので、ずいぶん困りました。それでも、同級生で教授になった人がすごく多いです。みんな結構努力したんでしょう。中学校から勤労動員で農業とか工業をやっているので何があっても怖くないという気持ちがあったのがよかった。生活経験は教育のなかでも必要ですね」
かろうじて卒業
前出の広瀬誠二には生活の苦労が待っていた。
「私は母ひとり子ひとりで、私が母を支えなくてはならん。前途の希望はまったくない。東京の家は4月の空襲で全焼して、住むに家なく、食うに職なしという状態に放りこまれたわけです。これで非常に悩みました。母親の実家の山梨に疎開しまして、親族その他が助けてくれたので一応の生活はできましたが、卒業という難問がありました。私達は1年半くらいしか実際には学校で学んでいません。学徒動員で行った先でも多少の勉強はしたといっても、担任教授の指導を受けて論文を書くのが当時のスタイルでしたから、そのとば口でつまずいたわけです。先生ももちろん動員されていますから、卒業論文を書くこと自体が難問なんですね。
本来9月卒業でしたが、戦争が終って正常に戻り、大学3年まで在学期間をのばしてくれました。それでも翌年の4月までに卒業論文、卒業設計を提出しなければならない。ところが、いかに活きるべきかという虚脱状態から、私自身は山に引きこもってしまった。卒業設計を書いたのですが、正直言って内容が伴わないものでした。提出期限が迫っても山に籠もっていたものですから、仲間が心配して、助け船を出してくれました。極端にいえば設計図をまねして作り上げたり、論文らしい数字を並べたり、先輩のコピーみたいなものを出したんです。先生も事情を理解してくれていたのでしょう。卒業式のときには免状をもらえなかったんですが、それから1週間から2週間後に戴きました。ですから、卒業記念写真にはおさまっていません」
日雇い工員で就職
卒業しても苦労は終らなかった。
「漸く卒業して職探しをするのですが、極めて難しい状況でした。特に航空はGHQに企業活動が禁止されていましたので、希望する就職先はありません。機械関係全般でも正式に人をもとめる会社は少なかったはずです。そこで、前に授業を受けていた吉城肇蔚先生を頼りました。吉城先生は後の自動車技術会の発起人で理事長をなさった方ですが、その紹介であっても、正社員としてとってくれるところはひとつもありませんでした。
3つ目4つ目に訪ねたのが、ディーゼル自動車工業といういすゞ自動車の前身です。もちろんその時も正式採用ではありません。鍋釜でも作ろうか云々という状態でしたから。作業員ならとるかという話でしたが、こっちもとにかく食わなきゃならない。切羽詰まって、作業員でもなんでも結構ですということで、簡単な面接を受けて働き始めました。たまたまディーゼル自動車工業も、米軍のトラック修理に関する業務が始まりました。
それと、当時の社長が技術者を失うということは将来にわたってやりたくないという方針でした。日本の敗因の一つになっていますけども、当時の自動車、飛行機も生産技術においてはアメリカと格段の差があった。半分のレベルにも達していなかったのではないでしょうか。良い飛行機はできているんですが、生産面からみると、非常に精緻にできすぎて、品質保証が難しい。うまくいけば、ものすごい性能を発揮するけれども、なかなか生産効率はあがらない。特に素材関係に関する技術レベルは低かった。当時の社長は将来を見据えて、新しく生産技術の課を作ろうとされたようです。
学卒のなかで新しい課を作って生産技術の向上に挑戦しようとしていた。『日給でもいい。作業員待遇でもやります』という気持ちのある学卒をとれという指示だったのです。その後も幾多の苦難の道を歩みましたが、この時の苦労を思えば耐え忍ぶことができます」
泣く泣く故郷へ
内藤進(リンナイ会長/第二工学部機械科/昭和23年卒)は、東京の仲間と離れて、泣く泣く故郷へ帰った。
「私は八高から昭和20年に入学しました。その年の3月、青雲の志を抱いて夜行列車で東京に出てきたのですが、品川で列車が止まって降ろされました。ちょうど東京大空襲をうけた朝(3月10日)だったのです。品川駅から秋葉原の高架がまっすぐ見えました。銀座も焼け野原で、ブスブス火が燃えていました。道が通れないので省線の高架の上を歩いたら、黒い死体が枕木のように並んでいました。
千葉へ行く前にいらない荷物を本郷の大学の近くにある知り合いの家に預けようと思っていたのですが焼けていました。そこで、目黒の別の知り合いの家を訪ねて荷物を預けて千葉に向いました。隅田川を渡るときに、真っ白なお相撲さんの死体が一直線に浮かんでいるのを見ましたね。
大学時代の仲間には、後にNTTの2代目社長になった山口開生(元相談役/第二工学部電気工学科/昭和23年卒)、昭和電工顧問の村田一(第二工学部/昭和23年卒)、ファナック名誉会長の稲葉清右衛門(第二工学部造兵科/昭和21年卒)らがいます。
私は次男坊で、リンナイは兄が継ぐはずだったのですが、戦死しました。当時は150人ほどの会社で、私は会社を整理して自分の人生を歩むつもりでしたが、『帰って来い』ということで泣く泣く手を振って別れました」
常に一流を目指して
そのときの決意が内藤の人生を左右することになる。
「たとえ皆と別れても、会社の規模は違っても、質的には同じクラスの人間になろう、と決意しました。
戦後間もない1958年にヨーロッパガス会議へ出かけたところ、ドイツのシュバンク博士が赤外線燃焼機関の新技術を発表していました。うちが東邦ガスと組んで3年間研究してもできなかった技術です。講演が終って降りてくる博士をつかまえて提携を申し入れたら、翌日提示された提携料が2億円。当時のリンナイの年間売り上げが6億円です。リンナイは林さんという方と内藤の両家の経営でして、当時の社長は林さんです。林家は子どもがいなくて、私をかわいがってくださっていまして、好きなようにやってみろという。幸い大当りして、日本じゅうのストーブが赤外線になった。特許料を2年で返した。これで大変な信頼を得た訳です。
当時、世界のトップのガスメーカーの集まりがありました。私はその仲間になんとか入ろうと思った。それには実績が必要です。これからは電子の時代だということで、1979年にリンナイ精器を作ると、大学の経験を生かして電子弁を開発した。これには、第二工学部時代の経験が生きました。戦時中は10畳ほどの部屋に真空管を100本並べて弾道計算をしていたのです。弾道計算もガスの電子弁もゼロイチのソフトでコントロールするのだから、理屈は同じことです。遠隔モニタする技術は、山口開生がNTTから共同出資という形で参加してくれました。
これが高い評価をうけて仲間入りが出来た。すると、ニュージーランド、オーストラリアのガス会社が会社を買わないかといってきた。このようにして、リンナイは名古屋の小さなガス屋から、世界的なガス屋になっていったのです。
それは、東大の時代に仲間と哲学的なディスカッションをして、学問でもビジネスでも、つねにトップを行くという自分なりの哲学を持っていたからだと思います」
戦後を支えた人材を輩出
戦時下の東大で学び、終戦を迎えた学生のうち、戦後日本を支えた人物は数多い。
政界では田英夫(参議院議員・社民党/昭和22年9月経済学部経済学科卒)や、自民党の長老だった原田昇左右(元建設大臣/昭和21年第二工学部機械学科卒)、あるいは青木茂(元サラリーマン新党党首/昭和21年9月経済学部商学科卒)などを輩出した。
官界では三重野康(元日銀総裁/昭和22年法学部政治学科卒)、草場良八(最高裁長官/昭和24年法学部政治学科卒)、濃野滋(通産省事務次官・JFEスチール顧問/昭和22年法学部政治学科卒)などがいる。
経済界では、先頃亡くなった小倉昌男(昭和22年9月経済学部商学科卒/元ヤマト運輸会長・故人)のほか、石川六郎(元鹿島建設会長・元日本商工会議所会頭/昭和23年第二工学部卒)、住田正二(JR東日本最高顧問/昭和24年法学部卒)、那須翔(法学部卒/東京電力非常勤顧問)、岡田茂(昭和22年9月経済学部経済学科卒/東映代表取締役・東急電鉄取締役)、大西實(昭和23年3月経済学部経済学科卒/富士写真フイルム取締役会長)など、枚挙に暇が無い。
有名無名を問わず、このような学生一人ひとりが敗戦の苦労を克服し、戦後日本の未曾有の繁栄を築き上げていったのである。(文中敬称略)
なお今回の取材にあたっては、山本徹美、田村栄治、神谷竜介各氏の協力を得た。また「文藝春秋」平成17年9月号記事中の萬年甫氏のコメントも山本徹美氏の取材によるものである。
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