農学部生の宮城疎開
本郷キャンパスには農学部もあるが、その様子はどうだったのか。農学部水産学科大学院にいた島田恒夫(元農林中央金庫勤務/農学部水産学科/昭和23年卒)はこういう。
「終戦の詔勅は安田講堂で聞きました。農学部は本郷のキャンパスでも一番端にあるので、安田講堂に行ったのは、後にも先にもその時だけです。8月15日は、午前中からずっと研究室で実験を繰り返していました。私は水産化学を専攻しており、実験の内容は、鰹、鮪の油脂からビタミンDを抽出するというもの。従来、ビタミンDは椎茸とか日光浴で吸収するものと考えられていたのが、鰹、鮪の脂から吸収できるという論文が外国の雑誌に報告された。その真偽について調べよ、との教授からのお達しで、研究室に入り浸って実験をしていたわけです。
そのような状況ですから、構内を散歩したり、だれかと会話をする機会はほとんどなかった。たしか、研究室には放送で、正午から重大発表がおこなわれるので安田講堂に集合するよう案内があったと記憶しています。私が行ったときは、1階は満員で、2階へ行きました。
終戦の詔勅は、雑音がひどくて、天皇陛下の声がかろうじて聞き取れる程度でした。ですから、内容についてはよく理解できなかったのですが、周囲の反応から、戦争に負けたのだ、とわかりました。そういう予感は、2、3日前からありましたね。
敗戦を知ったときは、(なんで負けなきゃいけないんだ)と、口惜しかったです。が、すぐに、(残念だけど、しょうがない)と、気持を切り替えました。
食料難の時代で、敗戦後も食糧事情が改善されることはありませんでした。私は卒業まで研究室で実験の毎日で、卒業後は缶詰、水産加工関係の企業に就職しました」
学部で分かれた徴兵猶予の有無
しかし、島田のように大学に残ったのは少数派ではなかったか。
「玉音放送は、勤労動員で行っていた神奈川・座間で聞きました。終戦までの半年から1年、ずっと塹壕を掘らされました。敵上陸に備えていたのだと思います」(井上弘/元茨水建設社長/農学部農業土木科/昭和20年卒)
「学校の指示で測量実習をしていた群馬で終戦を迎えました。20年4月に入学したのですが、授業はあまりありませんでした」(村田定彦/元豊国工業常務取締役/農学部農業土木科/昭和23年卒)
「終戦時には、新潟に勤労動員に行って測量をしていました」(渡辺滋勝/元三祐コンサルタンツ社長/農学部農業土木科/昭和23年卒)
おなじ農学部でも、学科によって学徒出陣、学徒動員に駆り出された者とそうでない者があった。そのあたりの事情を、獣医学科の佐伯好一(元愛媛県畜産試験場長/農学部畜産学科/昭和21年9月卒)の証言で見てみよう。佐伯は軍馬とともに宮城県へと疎開していった。
「私は獣医学科に入学しました。クラスの者は昭和18年10月21日、明治神宮外苑で行われた学徒出陣式で、公私立大学専門学校の学生たちとともに激励を受けると、それぞれ故郷へ帰って臨時徴兵検査を受けました。その後、合格者には赤紙(召集令状)が来ましたが、獣医学科の学生の場合は、最後に召集を延期する旨の一文がありました。これが召集延期で、農学科や農業経済学科の学生にはありませんでした。
また当時、大学生や専門学校生には軍の委託生制度というものがありました。航空(機体、発動機)や造船、法務などと同じように、一定の試験を受けてそれにパスすると、学生の身分はそのままに軍の学校に入れたのです。私は昭和20年3月15日に陸軍獣医学校の委託生隊に入校しました。
専門学校からこの試験にパスした者を委託生徒、大学から入った者を委託学生と言いまして、前者には月30円、後者には月40円の給与が出ました。当時としては結構な金額でした。当然のことですが、委託生徒は少尉、委託学生は中尉に任官することが決まっていました。
陸軍獣医学校は現在の駒場にあり、私もそこへ入学したのですが、昭和20年の6月上旬に空襲を受けたため、宮城県に移設されることになりました。鳴子温泉の近くの川渡村にある陸軍の軍馬補充部の施設へ転営したのが6月の半ばです。ここは現在も東北大学農学部の牧場として使用されていると聞いています。 米軍のグラマンの爆音を聞いたり、遠くに機影を見かけた程度で、わりと牧歌的な生活でした」
銀シャリとバターに敗戦を覚悟
佐伯は終戦を前に、教官たちの異様な光景を目にしていた。
「8月15日はここで迎えました。よく晴れた日でした。馬小屋のなかにテーブルを置き、寝台で使っている白いシーツのようなものを敷いてラジオを備え付け、電線を引きました。ラジオはよく聞こえました。敗戦だ、これで最後だ。そう思いました。
でも学生たちに動揺はありませんでした。それには理由があります。獣医学校には専門である医学系の教官だけでなく、軍事学の教官もいました。なかにはビルマのインパール作戦の生き残りなどという人もいたのですが、8月5日から10日ころには、その人たちの間の空気がおかしくなっていました。うまく表現しにくいのですが、本当におかしな空気が流れていたのです。いま考えると、彼らは短波放送などを聞いていたのではないかと思えるのですが、確証はありません。
もう一つ、8月10日から15日の間のいつだったか忘れましたが、私たちが教官の官舎を訪ねたことがありました。すると、いきなり銀シャリとバターの食事が出てきてビックリしました。バターは私の知る限りでは施設で作っていた記憶がないので、士官用に特別に支給されたものだったのかも知れません。突然のごちそうと同時に、学生たちは『いよいよおしまいなのだ』という現実を突きつけられていたわけです。それまでにも学生たちの間では『北海道はソ連に占領されるだろう』『それ以外の場所はどこに占領されるのだろう』といった話もあって、松山出身の私はどうやって実家まで帰るか、ルートを研究していたものです。最後は瀬戸内海を筏で渡るつもりでした。
結局、8月18、19日ころに解散という運びとなりました。教官からは衣類と長靴は持って帰ってよいが、顕微鏡は軍需品ではない研究用品だから大学へ持って帰って活用するように言われました。ただし教科書や写真の類はすべて焼却することと言われ、校庭でそれらを焼きました。隊員だけで120から130人はいたので、すべて焼くのに2日かかりました。獣医学科は昭和21年4月の学科改変で農学科畜産学専修と一緒になり、畜産学科と改称しました。
私たちの学生隊は第3期で、通算20回の同期会を続けてきました。すべて焼却したはずの資料のうち、当時の集合写真を持ち帰った者があってリプリントを配ることができ感激しました。ただ、同学・同期の戦友の顔のなかに、今に至るも氏名の判明しない者がいることは歴史のせいでしょうか。残念です」
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