しばらくして会員たちが句作になれてくると、鈴木良典は自ら句を寄せていた静岡の俳誌「海坂」への投句を会員たちに勧めた。藤沢も投句をはじめ、昭和二十八年六月号に四句採用されたのを皮切りに、三十年八月号まで四十四句が入選。ここで用いられた俳号は最初小菅留次、のち北邨である(『藤沢周平のすべて』文藝春秋編所収、「完全年譜」による)。
「海坂」は、「過去にただ一度だけ、私が真剣に句作した場所」という先に引用した文章の背後には、およそ以上のような内実があった。
では「海坂」とはどのような俳誌なのか。
創刊は昭和二十一年と早い。最初は「あやめ」という名だったが、二十五年に「海坂」と改題。主宰は百合山羽公、相生垣瓜人の二人となった。師系は「馬酔木(あしび)」の中心人物の一人である水原秋桜子とされる。瓜人ついで羽公が逝去した後の平成三年から和田祥子が主宰を継承、平成二十九年現在は鈴木裕之、久留米脩二の共同主宰でなお刊行がつづいている。俳誌としてはみごとに息が長い。
藤沢は書いている。
《……私はそれから後「海坂」に投句する一方で、しきりに現代俳句の作品を読むようになった。そこで好きになった作家が、秋桜子、素十、誓子、悌二郎だと言い、ことに篠田悌二郎の作品に惹かれたといえば、私の好みの偏(かたよ)りがややあきらかになるだろう。
つまりひと口に言えば、自然を詠んだ句に執するということである。》(「『海坂』、節のことなど」)
古いことからいえば、正岡子規の俳句革新をついだ虚子のホトトギス派は、客観写生を深めることを標榜した。その内部にいながら、客観写生にあきたらず、昭和三年に「馬酔木」を創刊したのが秋桜子だった。「馬酔木」以後は、俳人もその句風もかなり複雑多彩な様相となった現代俳句の世界になる。
藤沢が特に惹かれたという篠田悌二郎は、「馬酔木」のメンバーとして、けっして小さな存在ではない。
俳句に格別造詣の深かった文芸評論家の山本健吉はいっている。「彼は唯美的な『馬酔木』風の正系に位置している。彼は波郷・楸邨のような際立った個性を示さないが、人目に立たない地味な仕事を積み重ねてゆきながら、いつのまにか独自の風格を築き上げている作家に属する」(『現代俳句』)。
このような評語を、藤沢周平の悌二郎好きと合わせてみると、直観的にではあるが納得できるものがある。
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