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『神様の暇つぶし』千早茜――立ち読み

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

別冊文藝春秋 電子版17号

文藝春秋・編

別冊文藝春秋 電子版17号

文藝春秋・編

くわしく
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「しまった、おまえ、学生証あったよな。一般で買っちまった」

「払い戻してきましょうか」

「いい、いい」と、何枚かの切符を私に押しつけて改札を抜けていく。

「でも、もったいないです」

「金ならあるから気にするな」とにやりと笑う。「時間もないしな、四時間以上かかる」

 具体的な時間を耳にして、本当に行くのだと知った。

「行ってすっきりしろ」

 全さんの声がホームにすべり込む電車の音でかき消えた。

 並んで快速電車に乗った。煙草を吸いたいのか、全さんはずっと膝を揺らしていた。人の少ない昼間の電車は日陰のように薄暗く、全さんの顔色がいっそう土気色に見えた。

 東京駅につくと、全さんは五千円札を私に握らせた。ちらっと腕時計に目をやる。

「なんか買ってこい、昼飯まだだったろ」

「全さんは?」

「煙草」と短く言い、人波にまぎれて行ってしまう。そうじゃなくて、と言う間もなかった。なにを食べたいか訊きたかったのに。背の高い後ろ姿が見えなくなると急に不安になった。大きな駅は苦手だ。行き交う人の群れにふらふらと流され、ぶつかり、舌打ちをされる。

 駅弁とビールと袋菓子を適当に買うと、新幹線乗り場へ向かった。電光掲示板を見上げてホームを確認する。さっきまで行くのを迷っていたのに、切符の座席番号を頼りにしている自分がいた。この広大な駅で携帯電話を持たない全さんとはぐれたら、二度と会えない気がした。でも、この座席番号の場所へ行けば会える。

 すれ違った人のトランクが腰に当たる。大きな荷物の人が多くて歩きにくい。天井の低い改札階からエスカレーターでホーム階にあがると、少し息がしやすくなった。

 ホームを進むと、ベンチに腰かける無精髭の男が見えた。長い脚がにょっきりと突きでて、雑に束ねた髪といい、よれたシャツといい、全体的にくたびれている。全さん、と声をかけかけて、やめる。一人でいる全さんには目をひくなにかがあった。まわりの人にはないなにか。焚火の焦げた臭いが鼻に残るように、劣化した肌や髪や服の感触が目に飛び込んできて胸がざわつく。

 全さんがズボンのポケットから小さなものを取りだした。掌をくぼませて口にあて、首をのけぞらせる。そのまま目をとじて動かない。ゆっくりと呼吸をしているのが、喉仏の動きでわかる。

「全さん」と近づいた。「なに、飲んだんですか」

「痛み止め」

 片手に持っていた紙袋をくしゃくしゃと丸めてポケットにしまう。

「腰だ、腰。ジジイだから腰が痛いんだよ」

 なにも訊いていないのに、ふり払うように言う。額に汗がにじんでいた。

別冊文藝春秋からうまれた本

電子書籍
別冊文藝春秋 電子版17号
文藝春秋・編

発売日:2017年12月20日

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