「しまった、おまえ、学生証あったよな。一般で買っちまった」
「払い戻してきましょうか」
「いい、いい」と、何枚かの切符を私に押しつけて改札を抜けていく。
「でも、もったいないです」
「金ならあるから気にするな」とにやりと笑う。「時間もないしな、四時間以上かかる」
具体的な時間を耳にして、本当に行くのだと知った。
「行ってすっきりしろ」
全さんの声がホームにすべり込む電車の音でかき消えた。
並んで快速電車に乗った。煙草を吸いたいのか、全さんはずっと膝を揺らしていた。人の少ない昼間の電車は日陰のように薄暗く、全さんの顔色がいっそう土気色に見えた。
東京駅につくと、全さんは五千円札を私に握らせた。ちらっと腕時計に目をやる。
「なんか買ってこい、昼飯まだだったろ」
「全さんは?」
「煙草」と短く言い、人波にまぎれて行ってしまう。そうじゃなくて、と言う間もなかった。なにを食べたいか訊きたかったのに。背の高い後ろ姿が見えなくなると急に不安になった。大きな駅は苦手だ。行き交う人の群れにふらふらと流され、ぶつかり、舌打ちをされる。
駅弁とビールと袋菓子を適当に買うと、新幹線乗り場へ向かった。電光掲示板を見上げてホームを確認する。さっきまで行くのを迷っていたのに、切符の座席番号を頼りにしている自分がいた。この広大な駅で携帯電話を持たない全さんとはぐれたら、二度と会えない気がした。でも、この座席番号の場所へ行けば会える。
すれ違った人のトランクが腰に当たる。大きな荷物の人が多くて歩きにくい。天井の低い改札階からエスカレーターでホーム階にあがると、少し息がしやすくなった。
ホームを進むと、ベンチに腰かける無精髭の男が見えた。長い脚がにょっきりと突きでて、雑に束ねた髪といい、よれたシャツといい、全体的にくたびれている。全さん、と声をかけかけて、やめる。一人でいる全さんには目をひくなにかがあった。まわりの人にはないなにか。焚火の焦げた臭いが鼻に残るように、劣化した肌や髪や服の感触が目に飛び込んできて胸がざわつく。
全さんがズボンのポケットから小さなものを取りだした。掌をくぼませて口にあて、首をのけぞらせる。そのまま目をとじて動かない。ゆっくりと呼吸をしているのが、喉仏の動きでわかる。
「全さん」と近づいた。「なに、飲んだんですか」
「痛み止め」
片手に持っていた紙袋をくしゃくしゃと丸めてポケットにしまう。
「腰だ、腰。ジジイだから腰が痛いんだよ」
なにも訊いていないのに、ふり払うように言う。額に汗がにじんでいた。