巡査も、父親も、キヨを記憶から葬った気でいた〈私〉も、誰もが深いところで今も不幸な少年を思い、罪の意識を抱き続けていた。赤の他人の息子のために生霊となってまで戦後日本を罵倒する巡査の激情こそが、逆説的に「当時の日本も捨てたものじゃなかった」ことを証しているともいえる。
失われた少年の命は取り返しがつかない。夢も希望も甦りはしない。けれど、キヨを取り巻く大人たちが懐に忍ばせていた情は、さまよえる霊たちを慰める一つの救いとなったにちがいない。
日毎に家へテレビを観に来るキヨを快く迎えていた〈私〉の祖母。こっそりキヨに氷水を食べさせていた祖父。キヨの父親に仕事を提供しようとした父。「あー、俺ァ情けねえ」と自分を責めたお豆腐屋のおじさん。
浅田さんの描く昭和の風景は、どれほどの痛みに貫かれていたとしても、いつもどこかあたたかい。
一転して、二度目の降霊会は男と女の恋情が交錯する渋い話となる。
そう、〈私〉には会いたい相手がもう一人いた。若き日の恋人、彼にとって唯一無二の女性である。
時は〈私〉の大学時代へ再び遡る。東京オリンピックを挟んで高度経済成長を続け、絶好調のようにも見える日本だが、一方で綻びも生じはじめている。その一端ともいえる学生運動を尻目に、〈私〉は連日、六本木のコーヒーショップで仲間と暇を潰している。
〈学生運動は都会育ちの私たちにはなじめなかったし、フーテン族はなおさらだった。高度経済成長の申し子たちは、誰もが同じ閑暇と怠惰を共有していて、そうした中に私たちのような遊び人の集団があっても、何の不自然もなかった。〉
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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