前回までのあらすじ
藤戸藩の道具役(能役者)屋島五郎の長男として生まれた剛。しかし、幼くして母を亡くし、嫡子としての居場処も失った。以来、三つ齢上の友・岩船保の手を借りながら独学で能に励んできたが、ある日、頼みの綱であった保が切腹を命じられる事態に見舞われる。さらに、藤戸藩の御藩主が急死し、剛が身代わりとして立てられることに。そこには、保が遺した言葉と、能が舞える御藩主を求める藩の事情があった。役目を引き受け江戸入りを果たした剛に、目付の鵜飼又四郎と江戸留守居役・井波八右衛門は、城内における「奥能」の存在について話す。最初の登城で首尾よく奥能に繋がる人物のひとり、豊後岡藩の中川修理大夫久教と接触し「内々の能」に誘われた剛は見事「養老」を舞い切り、次なる誘い、日向延岡藩からの招請へと駒を進めた。
最も会わなければいけなかった御藩主、三輪藩の望月出雲守景清殿に初めての挨拶を申し上げたのは、東北を勤めて間もない九月一日の月次御礼の日となった。
初めて剛が御城に上がった七夕の式日に、出雲守殿は登城されなかった。岡藩の修理大夫殿は病のゆえと言い、その病を本草学にのめり込む草癖と言ったが、八月一日の八朔に加えて十五日の月次御礼にも姿を現さぬと、あるいは真の病かもしれぬと首を傾げた。
けれど、ようやく姿を見る機会を得た出雲守殿の瞳は三十の半ばという齢を知らぬげに澄み渡り、顎はきれいに締まって、剛は目にした刹那、出雲守殿の、面をつけぬ直面の舞台を見たいと思った。所作にも濁りはなく、病の翳は微塵も見受けられない。
知らずに、なんで登城日を四度も控えられたのか、そもそもこの御城でそんな気随が通るのかといった疑問を覚えたのだが、挨拶の順を待っているあいだに呆気なく霧散していた。出雲守殿に目を遣るたびに、「美しく居る」というのはこういうことなのかと嘆じざるをえず、この期に及んでなお登城のことなんぞに想いが行く己れが、いかにも身代わりと感じられるのだった。
最初に「美しく居る」という言葉を剛に伝えたのは例によって岩船保で、「なかなか想うようにはいかぬがな」という前置きをしてから語り始めた。
「能を美しく舞うためには、舞台と日々の暮らしに境目があってはならない。常日頃から、美しく居らねばならぬ」
「常日頃から……?」
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