傍らから見れば、二人はいま同じ場処に居るのだろうと剛は想う。図に乗れぬ者の常で、美しく居ようと努めてはきたものの、己れが美しく居るのかどうかはわからぬとずっと見なしてきた。が、岡藩の「内々の能」で養老の合評を聞き、鵜飼又四郎に「変われる者は変わる務めがある」と糾され、延岡藩の能登守殿から東北への想いを語られれば、もはや図に乗らぬのは罪だ。そして、己れの舞台を声のとおりと認めれば、その理由は、虫をも美しく喰らい、はばかりをも美しく使ってきたことくらいしか思いつかぬ。そうして悪鬼から逃れてきた時の積み重ねが、舞台の上の形や動きをも研いだということなのだろう。だから、二人は共に、「美しく居る」が躰に入っているのだろうが、剛からすればかけ離れている。そこに至る路筋が似て非だ。己れは逃げてそこに居て、出雲守殿は追ってそこに居た。同じ場に立ちながら、まったくちがう場に立っている。
だからこそ出雲守殿に、「奥能の元締」とはまたちがう興味が湧いた。
井波八右衛門は出雲守殿を、「変わり者」で通っていると伝えたが、一見する限り、変わったところはなにもない。むろん、美しく舞うために美しく居た能は大名の能を突き抜けているのだろうが、舞台を見ぬ人にそれは見えまい。むしろ、様子のよさが、まさしく大名である。伴連れがなくとも頂きに立つ者とわかる。けれど、その様子のよさは人を落ち着かせない。まさしく大名ではあるが、修理大夫殿や能登守殿のような、向き合う者を構えさせぬ鷹揚さは皆無だ。もしも周りから「変わり者」と了解されているのなら、おそらくそれは、誰もが同席しているうちになにかしら不安のようなものを覚えるからではなかろうか。その覚えが、きっと草癖の評判を流布させた。不安の源がわからぬのはもっと不安だから、草癖というわかりやすい理由を付けた。リンナウスなる欧羅巴の靄に包まれた学者にちなんだ薬草園の名の響きは、漠とした不安の源を表すのに格好だったのだろう。出雲守殿の様子のよさは、そういう仕業を周りに強いる。
剛もまた周りの一人だ。例に漏れず、不安のようなものを覚える。しかし剛は、その不安のようなものが嫌ではない。同じ場に立ちながら、まったくちがう場に立っていると感じはするが、その隔たりの遠さも嫌ではない。なぜかと想って、すぐに気づいた。重なるところがあるからだ。あの御方と重なるところがある。あの松之廊下の、小ぢんまりとした松のような御方と。
あらためて剛は挨拶を受けている出雲守殿を見遣る。ほどなく従五位下から従四位下の四品となって大広間に殿席を移られる出雲守殿の許には、もろもろの柳之間の大名が先々の縁を繋ぎにやって来る。ひとことで済まぬのは、病気見舞などを述べているのかもしれない。ようやく己れの順がきて、剛は間を詰める。そして、出雲守殿の前に座したとき、ふっと、そういう場なのか、と想う。そういう、重なるところがある方々が集われる場が「奥御手廻り御能」なのか……。ならば、加わってもよいか、という思いが頭を掠めて、剛は愕然とした。
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