その、悪鬼が跳梁しようとする、能ではない時の唱導として、剛は「美しく居る」を容れた。
「美しく居る」が良いのは、躰への働きかけであることだった。気への戒めではあるが、あくまで躰から入る。躰から入って気へ行く。あるいは躰が気をつくる。だから、悪鬼は入り口を失う。悪鬼は気の隙間から侵し入るのであって、躰へは入れない。ひたすら躰に働きかけて美しい形と美しい動きを念じていれば、おのずと悪鬼とは無縁になる。
実際にやってみれば、これほど効く唱導はなかった。なにしろ、律するのは躰であり形である。気には無理強いをせぬから、比喩ではなく、虫をも美しく喰らうことができるし、美しくはばかりを使うことができる。醜さが美しさに替わる。幾日か経った頃には、美しく居らねばここで生きていくことはできぬと悟った。己れの気を律して過酷に立ち向かっても薄まりこそすれ消え去りはしない。手応えの不たしかさに疲れて、ほどなく息が切れる。けれど、己れの躰を律して美しく居れば過酷を追い遣ることができる。場が酷いほど美が効く。輝きが力だ。野宮で物を喰う辛さが薄れ、眠りが深まるほどに、「美しく居る」を美しすぎると受け止めた己れがいかにも遠くなった。
そういう剛が見ても、出雲守殿は美しく居た。見るにつれ美しくて、なんで大名ともあろう者がこれほどに躰を律することができるのだろうと訝った。
もとより、出雲守殿は「奥御手廻り御能」の軸となる志賀藩の能を取り仕切る御方である。修理大夫殿は出雲守殿を「奥能の元締」とさえ呼んだ。となれば、出雲守殿は保が説いたように、美しく舞うために美しく居るのだろう。能のためだけに、美しく居るということだ。
剛は美しく居たくて美しく居たのではない。美しく居ざるをえなかったのだ。どうということもない所作にも美を強いる酷さが野宮の常なる暮らしにはあった。逆に言えば、だからこそ、すっと「美しく居る」に入れた。もしも能のためだけであったなら、「美しく居る」はやはり美しすぎただろう。
けれど、出雲守殿を目の当たりにすれば、能のためだけに美しく居る者は現に居るのだった。
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