ほかの委員もまたそうだった。多数の作品をよりぬいた上、第一次審査が終了したのは、調査会の結成から約二年を経た、大正八年(一九一九)二月二十四日だった。
数日後。
賢吉は、一通の手紙を金吾へ出した。
内容はただの事務連絡である。
――次回の審査会は、三月十九日にひらくこととなりました。
問題はその手紙の送り先だった。金吾から、人を介して、
――しばらく館山ですごすことにする。そのつもりでいるように。
との指示があったからである。
滞在先の旅館の名前と住所も聞いたけれども、館山というのは千葉県南部、館山湾をのぞむ温暖な地で、あまり交通の便がよくない。
東京の人はふつう、物見遊山のためには行かない。療養のために行く。
「先生、何のご病気なのだろう」
そんなことを、ほかの委員と話したりした。転地が必要なほどのそれとなれば、結核か、あるいは胃潰瘍か。もしも病状が重篤だったりしたら、長い目で見れば、それこそ議事堂建設の進捗にかかわるのである。
こちらもおすすめ
プレゼント
-
『リーダーの言葉力』文藝春秋・編
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/12/17~2024/12/24 賞品 『リーダーの言葉力』文藝春秋・編 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。