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『空を拓く』門井慶喜――立ち読み

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #歴史・時代小説

別冊文藝春秋 電子版28号(2019年11月号)

文藝春秋・編

別冊文藝春秋 電子版28号(2019年11月号)

文藝春秋・編

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「別冊文藝春秋 電子版28号」(文藝春秋 編)

 誰かが唾を吐き、痰を吐き、吐瀉物をまきちらし、それがべつの誰かの服をべっとりと汚すなど日常茶飯事である世界。誰もが手など洗わぬ世界。劣悪な環境下の濃厚な接触の連続によりウィルスはたちまち戦線をひろげる。たった数週間のあいだにフランス兵へ、スペイン兵へ、イギリス兵へ……或る隊では患者がひとりしかいなかったのに、翌日にはもう数百人にふくれあがったという。

 そうしてもちろん、彼らのうちのいくばくかは、作戦上の要請により故国へ帰ることになる。

 民間人との交渉を持つことになる。恋人、友人、労働者、パン屋、役人……これほどの爆発的な蔓延は世界史上はじめてで、人々はいつしか、

 ――スペイン風邪。

 と特別な名前で呼ぶようになった。スペインが原発というわけではないが、当時この国がヨーロッパの最後進国であったことと、第一次大戦そのものに対しては中立をたもったものの複雑な内戦にあけくれていたため他国兵との接触が存外多かったことが悪印象とむすびついたのだろう。或る意味、スペインが世界を支配した。大航海時代以来の事件だった。

 最終的には、アメリカで約五十五万人、イギリスで二十万人。

 戦闘による死者をはるかに上まわる数の人々がこの疫病で死ぬことになる。直接の参戦国でなくても、たとえばイギリス人との接触が日常的であり戦場へも無数の人々が徴用されたインドでは一二五〇万人が死んだといわれる。何しろすさまじい伝染力で、流行はなかなか終息しなかった。

 いや、終息どころの話ではない。

 それは原発から約六か月を経て、とうとう日本へ上陸した。

別冊文藝春秋からうまれた本

電子書籍
別冊文藝春秋 電子版28号(2019年11月号)
文藝春秋・編

発売日:2019年10月18日

プレゼント
  • 『さらば故里よ 助太刀稼業(一)』佐伯泰英・著

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