〈海と大海〉
東吾という凧の糸を、るいはしっかりと握っている。だから、東吾が糸の切れた凧のように、どこか遠くへ飛んで行ってしまうことはない。
第二期の東吾は、「冷や飯食い」でなくなり、講武所や軍艦操練所に仕事を得る。東吾が勤務する軍艦操練所は、軍艦に乗って海を渡る技術を習練する場所である。「凧あげの名人=空の男」である東吾は、「海の男」となる。それで、「海」というキーワードに注目して、シリーズを振り返ってみると、いきなり第一話の「初春の客」が海の話だったことに気づく。
旅籠「かわせみ」は、大川が「海」に注ぐ河口の近くにあった。黒い肌を持つ南蛮人のハンフウキは、愛する女を背負い、海へと飛び込んだ。彼は、自分を苦しめる日本を去って、はるかな故郷へと、海を泳いで帰ろうとする。
《声をあげたのは、次の瞬間、ハンフウキが海へむかって突進して行ったからである。
冬の海の、雪の中である。(中略)
愛する女を背負って、ハンフウキはまっしぐらに泳いでいる。その海の果てには、彼の母国が横たわっているに違いなかった。》
「かわせみ」の第二期で、幕府は開国した。開港された横浜も、「かわせみ」の舞台となる。「海」だけでなく、「大海」「大海原」という言葉も、用いられている。
「初春弁才船(はつはるべんざいせん)」には、三代続いた船乗りで、その名も「航吉」という男が登場する。彼は、軍艦操練所に勤務する東吾から、最先端の船の操縦の仕方を学び、和船(弁才船)の弱点を克服しようとした。東吾は航吉に、惜しげなく海図などの大切さを教える。
《「(弁才船は)おまけに海を渡るに必要な計器を備えていない。測天儀も羅針盤も海図もなしでどうやって陸地のみえない大海原を越えて行くのだ」》
航吉は、東吾から教わった「海図」の力で、父を助け、荒れる大海を乗り切り、上方の日本酒を正月の江戸へと運んできた。「初春弁才船」は結果的にハッピーエンドであるが、日本近海を船で航海することの危険性が強調され、読者の心を不安にする。東吾が乗る軍艦は、和船とは桁違いに規模が大きい。けれども、大海が牙をむいて襲いかかってきた時に、安全でいられる保証はどこにもない。
悪い予感は的中した。この大海が、東吾の乗った軍艦を、行方不明にしてしまう。
《麻太郎にとっても、かけがえのないその人(=東吾)は、榎本(武揚)に懇望されて一艘の船を目的地まで運航させたら、直ちに単身江戸へひき返すという約束のもと、大海へ出て行った。
それきり、船も、その人も帰っては来ない。》
「築地居留地の事件」
〈重荷〉
東吾が軍艦に乗って「かわせみ」を不在にしている頃、るいは、亡父の母の生家がある市川を訪ねた。シリーズの始まった当初、「父を失った娘」だったるいが、「父との絆(きずな)」を再確認するのが、「公孫樹(いちょう)の葉の黄ばむ頃」である。これが、「かわせみ」第二期の最終作となった。
るいの父・庄司源右衛門は、二十年も前に没している。その母の生家である千本(ちもと)家は、三十七年前にほとんどの人が謎の死を遂げ、今では断絶していた。ただ一人の生き残りであるおむらは、ずっと苦しみ続けてきた。その苦悶を、おむらは、るいにぶつける。
《「聞いて下さいますか。私、もう一人ではこの重荷をどうやって支えてよいのか、考えると気が狂いそうなのです」》
「重荷」がキーワードである。多くの人が命を失い、自分だけが生き延びた。その過去の人生が「重荷」となって、現在と未来を八方ふさがりにしてしまう。るいは、おむらに優しく語りかけた。
《「おむらさん、あなたのお胸の中はよくわかります。でも、あなたに出来ることは過去に捕われ、悩み苦しむことではありません」》
ああ、この「公孫樹の葉の黄ばむ頃」で、「かわせみ」の第二期は突然の終幕を迎える。そして、東吾の乗った軍艦が、行方不明になった。るいはこれから、重すぎる「重荷」を担って、生きねばならない。その覚悟を、平岩弓枝はるいに与えるために、この作品を書いたのだろう。
三十七年前の事件は、おむらの姉が鍵を握っていた。るいは、おむらにできることは、「お姉様の真心を大事に受けとめて、それを守り抜くことだと私は思います」と励ます。この言葉は、そのまま第三期のるいの指針となる。「東吾の真心を大事に受けとめて、それを守り抜くこと」。それが、るいのこれからの生きる意味なのだ。
シリーズ第三期の「新・かわせみ」は、世の中の仕組みが一新された明治時代を描く。だが、新しい時代を生きる人々も、一様にトラウマを抱えている。
最初の洋行から帰国した麻太郎に、千春が漏らした言葉に、読者は胸を衝(つ)かれる。
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