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おぼれる心臓

おぼれる心臓

坂上秋成

文學界12月号

出典 : #文學界

「文學界 12月号」(文藝春秋 編)

 帰宅してチャイムを鳴らすと、コハルは玄関まで出迎えに来てくれた。

 おかえり。

 ただいま。

 すぐ食べる?

 うん、そうして。

 コハルは急ぎ足でキッチンに向かい、食卓の上に皿を並べ始める。その間、私は念入りにストレッチをして自分の状態をたしかめる。右の足首にかすかな違和感があったが、その程度のことをいちいち気にしていたら、練習も試合もまともにこなせない。

 向かい合わせになって私たちは食事を始める。私はもともと食事中に話すのが得意ではないため、饒舌なコハルの話に適当なあいづちを打ち続ける。彼女は日がな一日家にいるか、ちょっと外へ買い物に出るだけの暮らしを送っているはずなのに、話題が途切れることはない。ニュースで観た政治の話、新しくリリースされたスマートフォン用アプリの話、試しに買ってみたビールの銘柄、それからサッカーについてのさまざまな情報。身ぶり手ぶりを交えながら語り、家の食卓ですら華やかな空間に変えてしまうような話術を彼女は備えていた。いささかみじめな気持ちになる。今日はチームメイトが練習中に尻餅をついた、今度の試合で勝つイメージはつかめてる、新しいスパイクを買ったんだけどなかなか足に馴染まない。提供できるのは退屈な話題ばかりで、男として妻をリードするような会話をこなせず、はがゆい。食事を終えてリビングのソファーで横になっていると、嗅ぎ慣れない匂いが漂ってきた。

 なに、この匂い。

 アロマ、変えてみたんだ。ローズウッド。リラックス効果がすごいんだって。

 ラベンダーは?

 まだあるけど、ちょっと飽きちゃったから。

 そう。

 樹木の皮を煮詰めたような香りに馴染めないまま置いてあった新聞を手にとると、一面にはイングランド・プレミアリーグの情報が掲載されていた。マンチェスター・ユナイテッドがウクライナのシャフタール・ドネツクから五千万ポンドで二十一歳のフォワードを獲得したらしい。イングランドの三部リーグに所属する私にとっては縁遠い金額だったが、それでも無関係な話題とは思えなかった。

文學界 12月号

2019年12月号 / 11月7日発売
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