『僕のなかの壊れていない部分』(白石一文 著)

 それでもそれまで小説を書いたことのない者が最初の一文をひねり出すには、ひどい苦痛を伴う。恋愛のことを書こうとすれば、過去の恋愛のいざこざが蘇るし、家族のことを書こうとすれば自分の生育歴を振り返らざるをえない。

 特に自分の生育歴を思い出すことには、書く以前に大きな苦痛を伴った。それはなかったことにして、結婚をし、子どもを産み、まったく新しい家庭を築いているつもりだった(結局はそれも崩壊してしまうのだが)が、過去と今が繋がっていないわけがない。もう何度もいろんなところで書いたり話したりしていることなのだが、私の母は私が十二歳のときに、三人の子どもを置いて(捨てて)家を出た。悲観をした父親は私だけを連れて、心中を企てた。私は親に捨てられて、命を葬られようとした子どもだった。そんな記憶をいったんは忘れたことにして、子どもを育てた。自分の親とは違う親になるのは簡単なことだった。自分が親にしてもらえなかったことを、子どもにすればいい。すべてはうまくいっている。そう思っていた。

 けれど、小説を書こうとすればするほど、子どもの頃の記憶が鮮明に蘇るのだ。そうして私に訪れたのは鬱だった。そんなときに手にしたのが、本書だ。