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実験としての批評──村上春樹、中上健次、柄谷行人 <講演 「近代文学の終り」再考>

実験としての批評──村上春樹、中上健次、柄谷行人 <講演 「近代文学の終り」再考>

文:ジョ・ヨンイル

文學界3月号

出典 : #文學界

「文學界 3月号」(文藝春秋 編)

 外国の批評家の講演が一国の文学界を揺るがすことは、おそらく類例のないことではないかと思います。しかしそうなるだけの理由がないわけではなかった。柄谷は韓国の文学者と文学研究者がもっとも注目してきた外国人批評家だったからです。これは漠然とした推測ではなく、データで証明されています。(※5)

 柄谷行人は九〇年代中盤からテン年代初めまでで韓国の近代文学研究者にもっとも多く言及されている外国人だったのですが――フーコー、ベンヤミンよりも多かった――それは主に『日本近代文学の起源』(韓国語版は一九九七年)と、「近代文学の終り」(韓国語版は二〇〇四年)と関係があります。文芸誌に掲載される批評に関しては正確な調査があるわけではないのですが、当時の雰囲気を思い出すと、学術誌とは比べ物にならないくらい多く言及されていました。しかしいつからか批評家や研究者の書いたものに、柄谷の名前が出てこなくなり始めます。

『日本近代文学の起源』は長きにわたって、韓国近代文学を勉強する学生の必読書でした。それもそのはず、同書は韓国近代文学を理解するにあたってとても役に立ったからです。実際に同書の論議は、韓国の植民地文学にもそのまま適用可能なので、いろいろな面で活用価値が高かった。しかし引用・言及することと、理解することは別問題です。つまりある意味で同書は本来の意図とは逆に活用された面が強い。

文學界 3月号

2020年3月号 / 2月7日発売
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