門井 今お話を伺って思うのは、辰野は一面において、まさに渋沢の背中を追いかけていたところがあるのではないか、ということです。渋沢はもともと大蔵省の人だったわけですが、しかし大久保利通とそりが合わなくて辞めてしまって、銀行家になった。官から民へという人生です。辰野もおなじ。
藤森 そうですね。あと渋沢は幕臣でしたから、新政府とそのままスッと合うという感じではなかったでしょう。つまり渋沢も、そして辰野も、ただただ世間の流れに乗っていくというタイプではなかった。あのふたりはきっと、会ったときから互いに“匂い”でわかったんじゃないでしょうか。
門井 この人は官の人じゃない、民に行きたがる人だ、と。そうしたインディペンデントな人物として辰野を考えると、やはりすごくお金に苦労していたことが目にとまりますね。民でやるということは、すなわち資金繰りに翻弄されるということですから。だからでしょうか、東京でも大阪でも、事務所のパートナーに選ぶ人というのは必ずお金持ちでした。東京の辰野葛西事務所では葛西万司という盛岡藩の家老の家の出身者がパートナーだったし、大阪の辰野片岡事務所の片岡安は、お父さん(養父)が日本生命保険社長の片岡直温です。
藤森 しかも当時はね、東京はまだしも、大阪には独特の事情もあったようですね。工部大学校の人たちがよく書き遺していることなんですが、大阪で建築仕事をやっても、とにかくちゃんとお金を払ってもらえなかったそうなんです。なぜなら、大工にお金を払うときに設計料なんて項目はありませんから。そんなおかしなものに金は払えんと。
門井 保険料も払わなかったらしい(笑)。当時の大阪的観念からすると、設計というのは紙に絵を描いただけということになってしまうのかもしれないですね。片岡安はそこを辛抱づよく説明しましたから、のちに弟子たちに「誰のおかげで設計料がもらえるのか」と威張ったそうです。
藤森 辰野はそこから、最終的には事務所を成功させた。他の人ができないことを成し遂げて、彼が建築界をつくりあげていったんですね。建築家の職能というものを、きちんと形にした人だと思います。
門井 辰野は建築自体もたくさんつくったけれども、同時に建築家という職業そのものをつくった、ということですね。
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