法然グループは、世の中を乱したかのような、まるでカルト教団のような扱いをされて流罪になるのですが、法然の高弟たち、弁長(※一一六二~一二三八年、浄土宗鎮西派の祖。主著に『浄土宗要集』『徹選択集』)や証空(※一一七七~一二四七年、浄土宗西山派の祖。主著に『選択密要決』『観門要義鈔』)などは処罰されていません。その人たちに比べたら入門してまだ六年の親鸞が処罰されています。
つまり、親鸞は法然の正統の継承者であるがゆえに厳しく処罰された、と考えることもできるわけでして。流罪記録を添えているのは、まさに親鸞こそ法然の教えをちゃんと継いでいる、だから流罪になったのである、それゆえこれが大切な証文なのだ、という説です。
さらに、「聖人の仰せ」説とでも言いましょうか、これは「後序」を読まなければ説明しづらいのですが、「後序」に、「聖人(親鸞)のつねの仰せには……」と「聖人の仰せには……」という文言が出てきます。親鸞の語りを記したもので、「五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」と「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。」を指します。
この「聖人の仰せ」が大切な証文だとする説もあります。つまり普段から、親鸞が語っていた言葉をちゃんとここに添えますよという意味だったというのです。多屋頼俊(※一九〇二~九〇年、国文学者・仏教文学会主宰。主著に『嘆異抄新註』『源氏物語の思想』)、安良岡康作(※一九一七~二〇〇一年、国文学者・東京学芸大学名誉教授。主著に『嘆異抄全講読』『正法眼蔵・行持』)が立てた説です。
そして、もうひとつ、「第一条から第十条の『師訓編』が大切な証文である」という説があります。岩波文庫の校注をした金子大栄(※一八八一~一九七六年、真宗大谷派僧侶・仏教思想家。主著に『教行信証講読』『仏教概論』)や、姫野誠二(※主著に『嘆異抄の語学的解釈』)や佐藤正英(※主著に『嘆異抄論註』)がこの立場です。
考えてみれば、第十一条から第十八条の異義編が『嘆異抄』の本論です。それの根拠となるのは親鸞の教えです。いわば『嘆異抄』は二部構成になっていて、前半部が大切な証文、と考えられるのではないか、というわけです。この説が、現在、最も支持されています。
※『嘆異抄』からの引用文は、新字・旧かなに統一しています。
(「はじめに」より)
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