たとえば第七条に、
「念仏者は無礙の一道なり。」
とありますが、「無礙の一道」というのは、何ものにも妨げられることのない、一筋の道という意味になります。だが、どう考えても念仏者が道だというのはおかしいのではないかと言われています。「念仏者」の部分、「者」は「は」と漢文で読む場合があるので、
「念仏は無礙の一道なり。」
と書いていたのが、写本で間違えて「念仏者」になったのではないかとの説もあります。これも原典がないため、真偽は明らかになっていません。ただ蓮如本などでは、あきらかに「念仏者は」となっています。
また、師訓編では第三条と第十条だけ、末尾に「云々」と付かないことも挙げられます。それ以外の条は「云々」と結ばれているのですが、第三条と第十条だけなぜか付いていません。なぜ、ここだけ付けなかったのか。
他にも、なぜ序だけ漢文になっているのかなども不明です。
著者は誰か?
実は『嘆異抄』には著者の名前が書かれていません。どの写本にも書いていないのです。おそらく原典にもなかったのでしょう。『嘆異抄』の著者は誰なのか。この謎は、江戸時代から随分取り沙汰されていたようです。
まずは覚如(※一二七一~一三五一年、親鸞の曾孫)が著者だとする説があります。一番古い『嘆異抄』の研究書、一雄という人が編纂した『真宗正依典籍集』に出てきます。知空(※一六三四~一七一八年)や月筌(※一六七一~一七三〇年)など本願寺派の有名な学僧も、この覚如説を採っています。
日野家(※藤原鎌足を祖先とする公卿で、十一世紀の藤原資業から日野を名乗る。親鸞はこの係累)の記録によると、親鸞は妻の恵信尼(※一一八二~一二六八?年)との間に、子供が六人いました。親鸞が恵信尼と結婚したのは京都だと推測されますが、越後へと流罪にされ、家族全員で流罪地に行き、その後関東に住み、また京都に戻る。それらどこかの時点で、恵信尼は子供の何人かを連れて越後に住みます。人生の晩年は夫婦別々に暮らしているのです。母に付いていった子供と、父と暮らした子供がいたわけです。
日野家の系図の順番でいうと、小黒女房と呼ばれる女子がいて、次に、後に親鸞が八十すぎて縁を絶たねばならない事態に至る善鸞(※慈信房。?~一二八六年)がいます。そして、明信(栗沢の信蓮房)。流罪の刑期が終わってすぐくらいに生まれたようです。さらに有房(益方入道)、高野禅尼、末っ子が覚信尼です。この小黒・栗沢・益方・高野などは全部、母恵信尼が住んでいた新潟の地名です。だからこの四人はおそらく恵信尼と一緒に新潟で暮らしていたのだろうと言われています。
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