絵師がらみの作品をもうひとつ。『絵ことば又兵衛』は、信長に叛旗をひるがえして一族を殺された荒木村重の息子、絵師・岩佐又兵衛を主人公とした作品。主人公は吃音であったというが、このことに対する苦悩は又兵衛が絵師であるが故の苦悩、何を描くにつけても自分の生き残った意味を問い続けなくてはならないことの象徴であるかのようにも思えるのだ。惜しむらくは、本書は又兵衛の前半生を描いて終わっているので、ぜひとも続篇を期待したくなるのは人情だ。
『商う狼 江戸商人 杉本茂十郎』は、山深い村里から出て来て、奉公していた飛脚問屋に婿入り、それが町年寄次席にまで出世した、いわば立志伝中の人物。口さがない連中が、彼をある妖怪にたとえて「毛充郎(もうじゅうろう)」と呼んだが、その実、作者はこの文化文政の江戸の町を駆け抜けていった男の半生が、どれだけ、血の涙を流すほどの哀しみに満ちていたかを明らかにしていく。この一巻は作者にとって記念碑的作品といえよう。
次に気鋭の作品では『フラウの戦争論』が光っていた。クラウゼヴィッツの難解ともいわれた『戦争論』執筆を助けたのは、夫に“知の愛情”を注ぎ込んだ妻(フラウ)マリーであったという物語である。作品は志半ばで逝ってしまった夫の代わりに、この一巻の出版にまでこぎつけたマリーへのヴィルヘルム親王のあたたかいことばで終わる。作者が著作三冊目にしてベストテン級の作品を放ったことは嬉しい限りだ。
『Cocoon(3~5)』は、昨年第一巻と二巻が刊行され、今年第三巻から五巻までが書き下ろされ完結した一大伝奇小説。秘密結社黒雲の頭領で江戸の闇に出没する鬼を退治する花魁・瑠璃を主人公に展開する物語は、やがて、幕府や朝廷をも巻き込んだ壮大なスケールにまで広がってゆく。新人の作品としては、近年、最も野心的かつ土台がしっかりしており、この作品を読んでいる時は幸せであった。
最後に、今年随一のヒューマン歴史小説を紹介してこの稿を終えることとしたい。『太平洋食堂』は、大逆事件で処刑された大石誠之助を主人公としたはじめての作品。誠之助が開いた“太平洋食堂”とは、パシフィックは平和、オーシャンは海、太平洋は“平和の海”という意味であることに依っている。弱者に共感を寄せる誠之助の姿に陽だまりのようなあたたかさを感じるとともに、その命を一瞬にして奪ってしまう権力の恐ろしさに怒りをおぼえずにはいられない傑作である。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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