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取材者の切実な思いがあったときだけ開く扉がある

取材者の切実な思いがあったときだけ開く扉がある

文:梯 久美子 (ノンフィクション作家)

『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』(河合 香織)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #ノンフィクション

『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』(河合 香織)

 こうした、読んでいてどきりとさせられる率直かつ重たい言葉が、本書にはいくつも書き留められている。強制不妊手術の当事者や、ダウン症の女性からも著者は話を聞いている。彼女たちがここまで心をひらいて語ったことに驚かされるが、同時に納得もする。

 どんな取材者にも、このテーマを世に問いたいという思いがある。この事実を伝えなければならないという使命感である。だが、それだけでは、目の前にいる相手に、「本当のこと」を語ってもらえないことがある。

 ここにいるこの私が、ほかでもないあなたに、どうしても話を聞きたい。そうでないと、私が私の人生を一歩も前に進めることができない。そんな切実な思いがあったときだけ開く扉というものが存在する。

 本書を読みながら私が感じていたのは、そうした切実さである。この切実さは、言うまでもなく、記述や分析の冷静さと矛盾せず、両立するものだ。

 プロローグで著者は、自分自身が妊婦健診で胎児にダウン症の可能性を指摘されたことを記している。どんな子どもでも受け入れると決め、その先の検査には進まなかったが、出産が近づくにつれて心は大きく乱れたという。生まれてきた子に先天性の病気はなかったが、産後、著者自身が敗血症によって生死の境をさまよう経験をしている。

 このことは、誤診の裁判に興味を持ち、取材を始める端緒にはなったろうが、本書の切実さは、それだけに起因しているわけではないと私は考える。

 取材で多くの当事者の話を聞き、時間をともにしてその生き方にふれる。資料を読み込み、過去にこの問題に取り組んできた多くの人の声に耳を傾ける。そうした作業を繰り返す中で、この本を書くことが、それをしないと前に進めない、自分にとってどうしても必要なことになっていったのではないか。

 それはキャリアの問題ではなく、もっと切羽詰まった、いわば「生きるための課題」である。そうでなければ、このようなつらく厳しいテーマの取材を五年間も継続し、書きおおせることはできない。

〈光の裁判は「こんな裁判を起こすことが問題だ」と何度も言われた。インターネットでも識者からも責められた。私がこの裁判を取材し、文字にすることを暗に責めている人もいるように感じた〉と著者は書く。

 訴えられた医師の代理人を務めた弁護士は、「……この話をするのは吐き気がする。裁判中もずっと吐き気がしていたし、今も吐き気がしている」「この事件を思い出したくもない。この事件を担当するのが本当に本当に嫌だった」と言ったという。

 だが、出生前診断の技術は、いまこうしている間にも進歩し、検査を受ける妊婦は増え続けている。最近ではビジネス化が進み、認定施設以外で検査が行われたり、カウンセリングが不十分だったりすることが問題となっている。当事者である妊婦だけが考えればよいことではもはやない。

 著者は本書の刊行以降も継続してこの問題を取材している。大きな問いに出会うことは才能であり、それを手放さずに追い続けることが作家としての力量である。これからも、命について考える道しるべとなる作品を、世に送り出してほしい。

文春文庫
選べなかった命
出生前診断の誤診で生まれた子
河合香織

定価:825円(税込)発売日:2021年04月06日

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