続く『向日葵(ひまわり)を手折る』(二○二○年)にも「向日葵男」なる怪人の噂が登場する。この作品は、父親の死を機に山間の集落に引っ越した小学生・高橋みのりが中学を卒業するまでの四年間を描いた物語だ。閉鎖的な田舎を背景に、みのりと地元の二人の少年の成長を綴った青春ミステリであり、現時点での著者の代表作と目されている。
現時点での最新刊が『サクラオト』(二○二一年)である。五感をモチーフにした五つの謎解きの物語が連なるこの作品は、著者が得意としている作中作ミステリであり、複数のエピソードが最後にひとつに収斂(しゅうれん)するという意味では『ひぐらしふる 有馬千夏の不可思議なある夏の日』や本書などと共通する構成を持つ一冊だ。
これらの作品群を読み返してみると、設定が時に日常寄りだったり、時にファンタジー寄りだったりという違いはあるものの、大部分の作品に、主人公の孤独からの脱出という共通テーマがあるように感じる。不幸な過去や家庭環境などの理由で心を閉ざした少女なり、引きこもりになった少年なりが、突然日常を引き裂いて起こる事件をきっかけとして、周囲の人々との関係を見つめ直す。それによって、冷え冷えとした悪意に満ちているように見えた世界に、実は自分を思いやってくれる人々がいたことが判明してゆく……というのがパターンなのだ。
主人公が少年少女であることが多いため、必然的に彼らを取り巻く主要な関係者は家族や学校での友人となる。家族といえども互いに無理解や仲違(なかたが)いはあるし、親友同士でも対立することはある。だが、その原因は、ちょっとした誤解や思い込みである場合も多い。著者の小説の主人公たちは、一度は頑なな心理状態に陥りつつも、そんな誤解を解きほぐすことで、あるべき人間関係を取り戻してゆくのだ。目に見えるものは、必ずしもその通りであるとは限らない。特に人間関係においては。
では、本書の場合はどうか。登場する山田家は、そのような目立った諍(いさか)いもなく、平穏で多幸感が溢れる日常を過ごしている。だが、読み進めるうちに、この一家にはどこか不自然なところがあることに気づくだろう。例えば、本来なら言及されて然るべき人間関係の欠落した部分に、家族の誰一人として触れようとしないのだ。この仲むつまじい一家は、本当に見た通りなのか──。
ミステリに詳しい読者ならば、最後に明かされる人間関係から、他の作家のある有名な小説を連想するかも知れない。また、本書の刊行の数年後に公開された、ある映画を想起するひともいそうだ。
この真実が明かされた時、それまでのエピソードに潜ませてあった違和感の理由が腑に落ちるようになっている。のみならず、振り返ってみればあの場面であの登場人物はどのような心境だったのか──といったことに思い至り、深い感動が込み上げてくるようになっているのだ。
「──物事は、なんでも見た目通りじゃないからねえ?」という本書の登場人物の言葉は、この小説に仕掛けられたサプライズそのものの象徴であり、同時に著者の作風自体をこの上なく表してもいるとは言えないだろうか──砕けた顔に譬えられ、また鬼子母神に関する俗説では人肉の味だと言われている柘榴が、甘美な果汁で人々の喉を潤し、種子の多さから家族の繁栄のシンボルともされているように。貴方は見かけに欺かれることなく、この家族の「真実」に到達できただろうか。
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