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「許せなくなる側」のかなしみ

「許せなくなる側」のかなしみ

文:芦沢 央 (作家)

『太陽と毒ぐも』(角田 光代)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『太陽と毒ぐも』(角田 光代)

 彼らは、相手に気を許すからこそ、他人には見せないような姿も晒す。

 相手も、引っかかる部分を、できうる限り好意的に解釈して受け入れようとする。

 だが、時間が経ち、激情が薄れ、相容れないものが日々の生活にじわじわと入り込んでくる中で、その受け入れがたさが浮かび上がってきてしまうのだ。

「二者択一」の中に、こんな文章がある。

 

〈永福町ではじめた私たちの暮らしは、ドレッシングみたいなものだったと思うことがある。サラダ油に酢を入れて、ぐるぐるかき混ぜる。なかなか混じり合わない両者は、数秒でちゃんと融合しどろりと白濁(はくだく)したドレッシングになる。三十四、五年で培ってきたそれぞれの生活は、油と酢のようにくっきりと独立した何かで、両者を混ぜ合わせるにはそれ相応の気負いと行為が要る。専用泡立て器でぐるぐるかき混ぜる行為は、しかしたのしかった。譲歩も変更もたのしかった。

 けれど白濁したドレッシングを放置すればまたすぐに分離してしまう。譲歩も変更も、あたらしい習慣も入りこむ余地のない何かを、私たちはそれぞれ相手のなかに見つけ出してしまう〉

 

 なんと絶妙な表現だろう。

 そう、この『太陽と毒ぐも』は、ドレッシングが分離した後、互いに混ざり合わない存在として向き合わざるを得なくなった油と酢たちの物語なのだ。

 そして、何が許せないのか、という詳細が書かれれば書かれるほど、なぜ許せないのか、という理由も炙(あぶ)り出されていく。

 本書のあらすじを紹介する際、まず言及されるのは「許されなくなる者」のエピソードだろう。

 だが、実はこの本がそれ以上に描き出しているのは、「許せなくなる側」のかなしみなのではないか。

「お買いもの」において、リョウちゃんに「使いもしないこんなものを二度と買うな、無駄金使うな、どうしても買うならあたしの目に触れさせるな、ってゆうかあんた気持ち悪い、あんたのものの買いかたは、へんだし、理解を超えてるし、病的で、気持ち悪い」と言い募ったコマッチは、リョウちゃんが宅配便の不在通知を慌てて隠す姿を見て、〈自分の金で欲しいものを欲しいように買うという行為を、どうしてあたしは許せないのか。どうして好きな男にこそこそした真似をさせてしまうのか〉と泣きたくなる。

「雨と爪」において、夜中に爪を切ると親が死ぬ、服に針をとおした直後に出かけると交通事故にあう、靴下をはいたまま寝ると親の死に目にあえなくなる、と数々の迷信を呪いのように浴びせかけてくるハルっぴに嫌気が差していたミキちんは、やがて自分が、親の離婚や大学を退学しなければならなかったことや勃起不全は何か「悪いこと」をしたせいなのか、という疑念に絡め取られていることを自覚するようになる。

 彼らは、恋人という最も親しい他人と深く関わっていく中で、相手と混じり合わせることができない「自分」の輪郭を知っていく。

 相手の中の「どうしても許せない部分」が、自分の過去、コンプレックス、傷、そしてそれらに飲み込まれずに生き続けるためにまとってきたたくさんの鎧と関係していることに気づいていくのだ。

 本書には、何とかして関係を続ける道を探る二人もいれば、別離を選ぶ二人もいる。

 だが、決して、自分自身とは別れることができない。

 作中で「裸んぼで暮らせたら問題なかったんだろうな」という言葉が出てくるが、この物語たちは、裸んぼではいられない、過去を、痛みを、コンプレックスを、すがるものを切り離せずに着膨れながら生きていくしかない人間のかなしみを見つめた作品なのだ。

 

 本書を読むと、普段は意識の奥底に封じ込めている自分の欠片たちが、過去の記憶を主張し始める。

 まずは、本書の内容に引きずり出されるようにして、昔つき合った恋人に対して「これは受け入れられない」と思ったことが蘇る。

 そして、なぜ許容できなかったのだろうという問いが、さらに幼い頃の記憶を掘り起こしていく。

 母親から叱られたこと、思い出すだけで消え入りたくなる失敗、人から言われて傷ついた言葉、正しいと信じてきたことが揺らいだ瞬間│解放された小さな欠片たちの昂ぶった声を聞きながら、けれど私は、それらを封じ込めたときほどはつらさを感じない。

 なぜなら、そんな愚かで、弱くて、滑稽で、情けない欠片たちに寄り添ってくれる物語が、ここにあることを知っているからだ。

文春文庫
太陽と毒ぐも
角田光代

定価:858円(税込)発売日:2021年07月07日

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