「さてと、コーヒーでも飲むかい?」
「俺は結構。どうせインスタントなんだろ」
「インスタントコーヒーを馬鹿にしてもらっては困るね」湯川は、相変わらずあまり奇麗に洗っているとは思えないマグカップに、安物のコーヒー粉を入れ始めた。「製法について、うんざりするほど多くの試行錯誤がなされている。あまり知られていないことだが、最初に商品化されたインスタントコーヒーは、日本人が開発したものだ。この時にはドラム乾燥法という方法が使われた。まあ、早い話がコーヒー抽出液を単純に乾燥させただけだ。その後マクスウェル社が噴霧乾燥法を開発して、インスタントコーヒーの味は格段に向上し、消費も伸びた。さらに七〇年代に入って真空冷凍乾燥法が登場し、現在の主流となっている。どうだい、一口にインスタントコーヒーといっても、なかなか奥が深いだろう?」
実にすらすらと淀みなく、インスタントコーヒーの歴史を語る湯川。それでも草薙は、「そうはいっても、インスタントはちょっとね」と食い下がるのだが、湯川はこう真意を明かす。
「どんなものでも、簡単には作れないということをいいたいのさ。アルミのマスクでも、インスタントコーヒーでも同じことだ」湯川はマグカップに湯を注ぎ、スプーンでかき回した後、立ったままでコーヒーの匂いをかぐ格好をした。「いい香りだ。科学文明の匂いがする」
科学文明の匂いがする――これこそが湯川がインスタントコーヒーを愛する理由ではないだろうか。このセリフは、インスタントコーヒーに対する湯川の考えを表すものとして、ファンの間でも非常に有名だ。
ところが、『聖女の救済』では、研究室に「あるもの」が導入され、読者に衝撃を与えた。研究室を訪れた内海薫と湯川のやりとり。
「すまないが、流し台の横にあるコーヒーメーカーのスイッチを入れてくれないか。水とコーヒーは、すでにセットしてある」背中の主が言った。
流し台は、入ってすぐ右側にあった。たしかにコーヒーメーカーが置いてある。まだ新しいようだ。薫がスイッチを入れると、間もなく蒸気の発生する音が聞こえた。
「インスタントコーヒーがお好きだと聞いていたのですが」薫はいった。
「バドミントンの大会で優勝したら、賞品としてコーヒーメーカーをくれた。せっかくだからと思って使ってみたら、なかなか便利だ。おまけに一杯当たりの単価も安い」
賞品とはいえ、なんとコーヒーメーカーを使い始めたのだ。湯川はあれほどこだわったインスタントコーヒーをあっさりと捨て、ドリップ式に走ったのか? その理由は、さらなる経済合理性の追求なのか? だがその後の、
「もっと早くに使っていればよかった、という感じですか」
「いや、それはないな。そいつには大きな欠点がある」
「何ですか」
「インスタントコーヒーの味を出せないことだ」
という会話で、やはり湯川のインスタントコーヒー愛が並大抵のものではないことがうかがえる(なお、『聖女の救済』は一杯のコーヒーから事件が始まるのだが、この会話の後、湯川は内海薫から事件のあらましを聞く)。
そして後日、別の事件(「操縦る」『ガリレオの苦悩』第二章)で内海薫が湯川の研究室を訪れた際には、
「お気に入りのコーヒーメーカーはどうしたんですか」
「独り暮らしの学生に進呈した。僕はやっぱりこっちがいい」
とあり、結局は愛飲するインスタントコーヒーに戻した顛末がわかる。
シリーズでは唯一、『真夏の方程式』にはインスタントコーヒーの文字が出てこない。この作品は、湯川が出張で訪れた海辺の町が舞台であり、研究室から遠く離れているためだ。インスタントコーヒーは、あくまで湯川の研究室で飲まれるもの、ということだろうか。
湯川は、研究室の来客にインスタントコーヒーを振る舞おうとする。客が急いでいたりすると、あっさりと断られたりもするのだが(草薙も何度か断っている)、愛するインスタントコーヒーを勧めるのは、来客を一応は歓迎しているという意思表示かもしれない。特に草薙が訪れたときには、湯川はほとんど必ずインスタントコーヒーをいれている。逆に内海薫が初めて研究室を訪れた際は、湯川は内海をまだ信用していなかったためか、インスタントコーヒーを振る舞うシーンは描かれていない(「落下る」『ガリレオの苦悩』第一章)。そして内海薫はその後湯川の信頼を得たことで、めでたく(?)インスタントコーヒーにありつくことになる。
最新長編『透明な螺旋』にも最新文庫『沈黙のパレード』にも、湯川と草薙、湯川と内海薫の間で、インスタントコーヒーをめぐるちょっとしたやりとりがあるので、ぜひ探してみてほしい。インスタントコーヒーはガリレオシリーズを通して、湯川のキャラクターを特徴づけ、定番のやりとりとして読者に強い印象を残している。インスタントコーヒーという切り口でシリーズを読み返してみるのもまた、面白いかもしれない。
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