池波さんは映画と同じくらい歌舞伎にも詳しかった。そして、三十年以上前から、歌舞伎の危機はこれまでとは違う、このままじゃいい役者がいなくなるよ、と憂えてらした。
当時五十代の中村富十郎さんだけをしきりに褒めていた。褒め過ぎのような気もしたが、それは、世の中はこの人物をもっと評価すべきだ、という池波さんの怒りにも似た義侠心のように感じられた。
果たして、歌舞伎と富十郎丈のその後は、池波さんの目が狂っていなかったことを証明している。
「フランス日記」に記された旅の一番の目的は、エソワという村に行っておきたい、であった。そこでルノワールが夏を過ごしたという石造りの家を眺めつつ深呼吸をし、お墓参りも済ませ、満足げに頷いていらした。
ちなみに、献立表だけはきちんと読めるようにしとけ、といわれて通訳で同行したわたしの取材ノートには、殴り書きがたった一行残っていた……「エソワへの道、けっこうこやしくさい」。
パリへ戻る前に、池波さんがフランスの田舎を愛するきっかけとなったバルビゾンの宿にも泊まろうということになった。そこでの旧知の給仕長と池波さんとのやりとりは、言葉は違うのに互いの気持ちが通じ合っていて、フランス映画の邂逅の名場面を見ているようだったのを思い出す。
余談ながら、このバ・ブレオーにはかつて昭和天皇が訪れていて、その時の逸話がまたたまらない。
それは、エスカルゴをいくつ召し上がりますか? と尋ねた通訳が、三個ですか? と聞き返したという。
昭和天皇は「サンク(五個)」とフランス語で答えられていたのである。
歳月と共に池波さんが通っていた店はだいぶなくなってしまった。
なかでも万惣の閉店は残念だったが、「冬はホットケーキよりもこっちだな」と粟(あわ)ぜんざいのお相伴にあずかった同じ須田町にある竹むらが、アニメ(ラブライブ!)の聖地巡礼で賑わっていると知った時の衝撃もかなりのものだった。
いま、この文庫を片手に食べたいもの、食べられるものは、なんだろう。
「稲荷ずし」を読みながら、池波さんの好物だった神田志乃多寿司のおいなりさんがいいかもしれない。シャキシャキの蓮根が酢飯に混ざっているが、至って普通のいなり。近年、また東京のデパ地下でも買えるようになった。
もっとおいしいものは山ほどあるし、日本全国から気軽に取寄せできる時代になったが、池波さんのエッセイに触れると「うまいまずいよりも思い出とともに食べる味のこたえられなさ」を自分なりに探してみたくなることだろう。
週刊文春の「ル・パスタン」の連載は昭和六十三年十二月まで続き、それからほどなく昭和が終わり、馬の画の年賀状を描くことなく池波さんは旅立たれたのである。
二〇二二年一月
池波正太郎さんの生誕九十九年に思いを寄せて
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。