本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
【対談】國分功一郎×ブレイディみかこ 「〈沈みゆく世界〉から立ち上がる」

【対談】國分功一郎×ブレイディみかこ 「〈沈みゆく世界〉から立ち上がる」

文學界3月号

出典 : #文學界

■立ち上がる自治の光景

 ブレイディ いまのイギリスがまさにますますそうなんですよ。物価高で生活苦になり、中小企業や小さいお店がバタバタつぶれ始めている。その中には、EU離脱の国民投票で、「離脱さえすればすべてうまくいくんだ」と思って離脱に入れちゃった人たちもけっこういるわけです。そういう人たちは、あのときに夢を見せられちゃったわけじゃないですか。でも、EU離脱はどうしたって、いまのイギリスの物価高の要因の一つになっています。
 イギリスって自給自足ができない国ですから、外から物を運んでこなきゃいけない。ところがEUを離脱したために、物流も煩雑になってしまったし、物を運んでくれる労働者も、離脱とコロナで自分たちの国に帰っちゃった。その結果、大変な人手不足になっていて、それが物価高につながっています。地方のレストランに行ったら「スタッフが今日いませんから」って閉じてるんですよ。世の中がここまで大変な状態になってくると、みんなもう夢を見るのはやめた、というか、あきらめて、それよりもサバイバルだという感じになっているんです。
 そうなってくると、先ほど話したようにみんなで助け合い始めますよね。そのときに、「困っているから助けろ」と政府を突き上げても、時間はかかるし遠すぎる。近年ずっと言われていたじゃないですか。民主主義を実現するには、国家は規模が大きすぎるんじゃないか。もっと小さい規模でやっていったほうがうまくいくんじゃないかって。アクティヴィストでアナキスト人類学を探求していたデヴィッド・グレーバーがよく言っていたことです。
 興味深いのは、理念を掲げて小さな民主主義の実現を推し進めなくても、この物価高でみんな生活に困っている状況が人々に行動を起こさせていることです。それこそ中動態じゃないですけど、自分の意志で立ち上がっているというよりは、いろんな原因があって、人々を行動に仕向けている。自分たちで立ち上がっているようで、立ち上がらせられているような。そういう意味で今日のテーマである「〈沈みゆく世界〉から立ち上がる」も、自分の意志だけで立ち上がるということじゃなくて、おのずと助け合いや自治の光景が立ち上がっていると解釈できるんじゃないでしょうか。國分さんが『スピノザ』でよく使われていた言葉を使えば、そういう様態が立ち上がっているという気がしますよね。

 國分 立ち上がるというと、たしかに「ここで俺たちが頑張らなければならないんだ」といって強い意志でグッと自発的に自分から立ち上がるみたいなイメージがあるかもしれません。その場合って、無理やり哲学っぽく言うと、精神が身体を動かしているイメージだと思うんですよね。強い根性が働いて、身体というものをグッと持ち上げている。でも、ブレイディさんがいま言われた中動態的なイメージは、何か新しい情景が立ち上がっているという自動詞的な感じですよね。誰かが何かを持ち上げているというより、そういう状況が生まれてきている、と。
 先ほど五校に一校がフードバンク的な取り組みをしているという話がありました。僕は恥ずかしながら、サバティカルでイギリスに行くまでフードバンク自体を知らなかったんですけど、いまでは日本でも増えてきています。そこまで貧困が進んでいる。とりわけ子どもたちの貧困が大変な問題になってきていて、子ども食堂もある時期から広がって話題になっている。そう考えると、日本でもアナキズム的な情景が立ち上がってきているのかもしれません。

■今こそ求められる複眼的思考

 國分 貧困について考えるとき、国に大きな責任があることは忘れてはなりません。国が貧困について責任ある行動を取ってきているかどうかは常に批判的に吟味されなければならない。でも、ある条件やある現実がアナキズム的な情景を立ち上げていくという場面があることも事実だし、大切なことです。そこは決して忘れちゃいけない。
 これは実は複眼的に考えなければならない難しい論点だと思います。一方で、アナキズム的な情景を変に称賛すると、国の責任が見えなくなってしまうことがある。でも、他方で、「とにかく国がやるべきだ」と国への要求や批判だけに終始するならば、地べたのポテンシャルというか、人々の持っているアナキズム的なポテンシャルを見失うことにもなりかねない。複眼的と言いましたが、両方の点に同時に目配りしながら考え、そして発言していかないといけない。
 ブレイディさんもずっとそうされてきていますね。緊縮財政を批判する一方で、アナキズム的な情景が立ち上がっている現実を常に書かれてきた。僕は「国の責任を見逃したら絶対にいけない」ということと、「アナキズム的な力を見失ってはならない」という両方のメッセージをブレイディさんの本に読んできたように思います。

ブレイディみかこ『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』

 ブレイディ イギリスの北部のほうだったと思うんですけど、光熱費の高騰をなんとかしようと、風力タービンを導入したコミュニティがあるんです。つまり、自分たちで発電しようと思っている人たちまで出てきているわけです。そういう自治が立ち上がってくると、そのなかからリーダーが出てきそうな気がするんですね。「自分たちはこれできるよね」と自信をつけ、その動きがどんどん広がっていったら、相互作用で国も変わっていくんじゃないでしょうか。国が議会で決めた政策を下におろして変わっていくだけじゃなくて、下から自治をやっていくなかで、本当に地に足の着いたやり方ができるリーダーが出てきて、下から変わっていくかもしれない。だから、どっちかだけじゃ駄目なんですよね。

 國分 僕は震災の時にそういう話をよく聞きました。いまの政治を見ていると、こんなに情けなくてどうしようもない状態なのに、震災の後のボランティアの現場に行ったら、ものすごいリーダーシップを発揮しているすぐれた人たちがたくさんいた、と。実は社会に変えていく力をもった人たちが既にたくさんいるということを僕もそうした話から教えてもらいました。

 レベッカ・ソルニットに『災害ユートピア』という本がありますけれども、災害が起きると、人々が助け合うユートピア的な状況が生まれる。でも、それは長期間は続かなくて、すぐに国家や資本が入ってきて、「復興」の名の下に破壊された土地を買い叩き「開発」を始めてしまう。いまのブレイディさんのお話を聞いていて、現在のような物価高や貧困問題も、実はひとつの災害であって、それを契機に生まれた「災害ユートピア」から新しいリーダーが出てくるかもしれないという可能性に思い至りました。
 もちろん、だからといって、そのことをいまの困難な状況を肯定する理由にしてはいけない。また、この災害ユートピアもすぐに国家や資本によって収奪の対象にされてしまう可能性もある。ただ、だからといって、その中にある、地べたのアナキズム的ポテンシャルを見失うべきではない。
 でも、複眼的にものを考え、行動するのは本当に難しいことですね。国に「何とかしてくれ」と言い続けつつ、身近な人々と助け合っていく術を見いだしていかないといけないわけですからね。

 ブレイディ 難しいですよね。一方だけを切り取られると、もう一方に批判されるという側面もあるし。どっちもという立場は、非常にあいまいだし、卑怯じゃないかと思われがちじゃないですか。でも、両方要るんですよ。

 國分 僕も学生に、ものを考えるときは少なくとも相反する二要素を考えないといけないとよく言ってます。一つの要素を考えているだけでは、ものを考えているとは言えない。本当は二個どころじゃなくて、三つも四つも考えなきゃいけないわけですが。
 この社会の現状を考えるんだったら、国家の政策を批判的に検討し、しかるべき要求をしていくこと、その上で、様々なポテンシャルが、困難な状況のなかでも少しずつ静かに育っていることを注視し、その可能性を拡張していくこと。その二つは絶対に必要な立脚点ですね。

■地域の可能性

 ブレイディ 「何とかしてくれ」じゃなく、「何とかする」力って、『スピノザ』にあった「コナトゥス」なんじゃないかと思ったんですよ。

 國分 「コナトゥス」というのは感動的な概念です。その人がその人の存在に固執しようとする力があって、それが人間の本質である、いや、人間どころか、あらゆる存在の本質だとスピノザは言っています。つまり、あるところにとどまろうとする力ですよね。生きている人が生きている状態に何とかとどまろうとするときに、ある力を発揮することがある。その力がコナトゥスです。だから、今日いろいろお話しいただいたアナキズム的ポテンシャルの話は、確かにコナトゥスの発揮にほかならないんですね。

 ブレイディ 私もすごくそう思います。ミクロもマクロも、そういう力が状況を変えていくようにしないといけないですよね。

 國分 先ほど、大きな範囲では民主主義は難しいとおっしゃっていましたね。僕はイギリスで一年ほど暮らしたときに、地域政党がけっこうあるのが面白いと思ったんです。ウェールズとかスコットランドとか、地域政党ってその地域のことを第一に考えるから、自動的に社会民主主義的になっていくんですよね。だけど国家を代表するとなると、GDPとか国家全体の数値を上げようとするから、いまの資本主義だと国民はむしろ邪魔で、資本だけあればいいみたいな発想になってしまう。国民は邪魔者だから、社会保障はいらないだろうとか。

 ブレイディ 経済もトップダウンでトリクルダウンさせておけばいいんだってね。

 國分 いまの資本主義は、国家にとって国民が一番邪魔という笑えない状況を作り出しつつあります。でも、地域に根差している政党はその歯止めになるんじゃないか。ただ、日本にある地域政党は問題含みと言わざるを得ないので、イギリスで地域政党が果たしている役割をそのまま日本に当てはめることはできません。とはいえヒントにはなる。現状の国家規模の議会制民主主義でもまだまだできることはあることを僕はイギリスの政治から教わった感じがするんです。

 ブレイディ 思い出してみると、私たちは2017年に出した『保育園を呼ぶ声が聞こえる』という鼎談本でこういう話をしていましたね。この本では、日本の保育園や教育について、イギリスのこういうところから学べるんじゃないかという話を色々しました。そして、教育って、どうしたって政治につながっていくけれども、教育と地域は密接に結びついているから、変えていくとしたら「やっぱり地域からだよね」って話になりました。教育という分野に限らず、地域から何かを変えていける可能性が大いにあるという話はあのときから出ていたなと、國分さんの話を聞きながら思い出しました。

 國分 そうなんですよ。地域は本当に大きなポイントです。でも日本の駄目なところは、地域が大事だということを国家が旗を振って、中央省庁で何とかやろうとするところです。

 ブレイディ ああ。アナキズムじゃない。

 國分 学校をコミュニティスクールにするというのも、上から押し付けのコミュニティ主義なんです。国家には国家規模で何が必要かを考えてやってもらわないといけない。コミュニティの実践は、コミュニティのなかで立ち上がっていかないとうまくいかないんですよね。

 ブレイディ 上からやれということじゃないですもんね。足元の地域社会からアナキズムやコナトゥスが立ち上がらないと。


 〔文學界2023年3月号所収 本稿は「文藝春秋100周年オンライン・フェス」にて2022年12月9日に行われた対談を再録したものです〕

文學界 2023年3月号 目次

【創作】山下紘加「掌中」
欲しいわけではなかった――主婦の幸子は、ふとした切っ掛けから万引きを繰り返すようになる。著者の新境地!

長嶋有「そこにある場所」
絲山秋子「赤い髪の男」
二瓶哲也「それだけの理由で」

【対談】國分功一郎×ブレイディみかこ「〈沈みゆく世界〉から立ち上がる」←本記事です
ミン・ジヒョン×西森路代「悲恋愛を選ばないフェミニストのために」

【インタビュー】山田詠美「替えのきく言葉は使わない――小説作法を語る」(聞き手・小林久美子)

【新芥川賞作家】〈特別エッセイ〉井戸川射子「等しく私から遠い場所」
〈作品論〉宮崎智之「川下に流れゆく〈いま〉をキャッチする――『この世の喜びよ』論」
〈特別エッセイ〉佐藤厚志「先輩作家の背中」
〈作品論〉鴻巣友季子「傷の延長としてある「災厄」――『荒地の家族』論」

【特集】滝口悠生の日常
生活の愛おしさを描き続ける作家と一緒に歩いたり、しゃべったり。キーワードは「散歩」「窓目くん」「日記」
〈散歩〉「風景の一部になってみる――ルポ 秋津散歩」(取材・文 辻本力)
〈雑談〉「昼下がりに友人と」滝口悠生×窓目均/滝口悠生×植本一子×金川晋吾

【西村賢太一周忌】古谷経衡「『蝙蝠か燕か』論――西村賢太の「現代編」」

【巻頭表現】初谷むい「心底おもいます」
【エセー】グレゴリー・ケズナジャット「空気に浮遊する危険なもの」/矢野利裕「ブックオフにとって文学とは何か」

【強力連載陣】砂川文次/金原ひとみ/奈倉有里/王谷晶/辻田真佐憲/藤原麻里菜/成田悠輔/平民金子/津村記久子/高橋弘希/松浦寿輝/犬山紙子/柴田聡子/河野真太郎/住本麻子

【文學界図書室】多和田葉子(関口裕昭訳)『パウル・ツェランと中国の天使』(木村朗子)/筒井康隆・蓮實重彦『笑犬楼vs.偽伯爵』(藤田直哉)/岡﨑乾二郎『絵画の素――TOPICA PICTUS』(平松洋子)/鴻巣友季子『文学は予言する』(川本直)

表紙画=柳智之「テネシー・ウィリアムズ」

ページの先頭へ戻る