友人・芥川龍之介の才に激しい嫉妬心を燃やした若き菊池寛は、いかにして文豪になり得たか。初期代表作「無名作家の日記」誕生に秘められた一発逆転の発想とは!?
ジャンル : #歴史・時代小説
とはいえ芥川もただ聞くだけではなく、いろいろ話をしてくれた。こちらはもっぱら文芸がらみだった。最近読んだ小説のこと。文壇の誰それの滑稽な逸話。雑誌社某の経営状態に関する真偽さだかならぬ噂のかずかず。なかでも寛がうれしかったのは、寛自身の書いたものへの評価だった。
寛はこのころ、作家活動がなかば停止している状態だった。それでも漱石の門人、ないし「新思潮」同人という肩書きには余光があったのだろう。「大学評論」や「中学世界」、「斯論(しろん)」などという雑誌から短い小説の依頼を受けることがあった。
いずれも商業雑誌ではあるけれど、こと文芸界での評価となると有力ではなく、同人誌である「新思潮」とくらべてさえも格が落ちる。書いたところで文壇への宣伝にはならないのだが、しかし寛は依頼を断ることをせず、いそがしい記者の仕事の合間をぬって「暴君の心理」「ある敵打の話」「ゼラール中尉」などを書いて渡した。
おなじ文章といっても新聞記事と小説ではまったく別物なので、推敲(すいこう)には苦労した。ときには帰宅して机に原稿用紙をひろげ、あれこれ書いたり消したりするうちに朝になったこともある。とにかく手は抜かなかった。
芥川は、
「手が上がったね、菊池ひろし。好調つづきだ。今月の『中学世界』に載せた『第一人者』なんか、なかなか感銘を受けたものだよ。あの主人公の吉岡っていう子は、東京から四国のT中学に転校して来た五年生っていう設定だけど、ちょっと僕のおもかげもあるのかな。まあT中学は高松中学校なんだろうがね。その吉岡が、あとのほうでテニスの試合の審判をやるところ、あれが僕には特によかった。試合をやってるのは自分の後輩である副将組で、宿敵のH中学――これは広島中学校かな――に勝ってほしいのは山々だが、勝ってしまったら大将たる自分の立場が悪くなる。自分はもう負けちゃってるから。その複雑な心理がラインの判定に微妙な影響をあたえるなんて、いい洞察じゃないか。感心したよ。『中学世界』には勿体(もったい)ないね。読者は中学生だけだからね。文壇の反応は?」
「ない」
「だろうね。僕がもっといい雑誌に紹介しよう」
寛がいちばんうれしいのは、もちろん最後の一句なのである。何しろ友人の言であるばかりか、文壇人の口約束でもあるのだ。これほど心強いものがあるだろうか。ひょっとしたら例の種取りのお礼の意味もあるのかもしれないが……いやいや、そんなことはない。芥川龍之介というのはそんな情実まがいで文学作品の鑑賞をおこなうような低俗な作家ではないのである。
実際、このことばは嘘ではなかった。芥川はあちこちの編集者との雑談で寛の名前を出してくれたようだった。
持つべきものは友である。そのうち寛のもとには有力雑誌から依頼が来た。寛は「文章世界」に書いた。「新潮」に書いた。書くたび寛もよく名を知っている評論家たちが新聞や雑誌でほめてくれた。菊池寛の名はにわかに彩度を増し、文壇の一部の注目を受けた。
そうしてとうとう、あの雑誌に依頼されたのである。寛はそのころ南榎町(みなみえのきちょう)の裏通りで暮らしていた。表通りから入る路地の幅が一メートルもないようなところで、家のまわりは陽あたりが悪く、どぶに溜まった泥のにおいがいつもしていた。或る日、勤めから帰ると、その入(はい)り口のあたりに人力車が一台とまっていたのである。
車夫が、ぼんやりと突っ立っている。
小脇には饅頭笠(まんじゅうがさ)をかかえている。その饅頭笠には社名も商標も書かれていないらしいところを見ると、自家用なのにちがいなかった。このころ自家用の人力車などという贅沢なものを乗りまわすことができるのは、華族か官員でなければ、
「『中央公論』!」
家へ飛びこむと、背広姿の男がお茶を飲みつつ待っていた。近所の誰かが招じ入れたのだろう。男はやはり「中央公論」の編集者で、高野敬録(たかのけいろく)という名前だった。
「うちに、ぜひ」
高野を路地まで送り出すと、寛は家に戻り、両手で両頬をぴしゃぴしゃ叩いた。
「来た。来たぞ!」
右手のこぶしで胸を殴った。そうしなければ興奮が静まらなかった。
あの新人作家の檜舞台。芥川が「手巾(ハンケチ)」を書いて地歩を固めたスプリングボード。ここで大きい評判を取れば、この俺も、
(有名に)
人生には、転機というものがある。あとで振り返ってはじめて「ああ、あれが」と気づくものだと人はよく言うけれども、寛はちがうと思っていた。たいてい来るときにわかる。幸運の女神には前髪しかないというのはギリシアか何かの諺(ことわざ)だったが、その前髪をきっちり大事につかみきるか、それとも「チャンスはまた来るさ」などとぼんやり考えて見すごしてしまうか。
俺は、どっちだ。
(もちろん、前者だ)
今回は前者だ。そうあらねば。これまで何度も何度も安易に日をすごして女神の髪のない後頭部を見送ってしまった寛の、これは痛切な決意だった。年は三十一である。こんな好機はもう来ない。
さあ、どうする。寛は気持ちを落ちつかせるため、湯へ行った。晩めしを食って家へ帰り、ゆかた一枚であぐらをかき、机に向かった。
食卓に原稿用紙の束を置き、万年筆を取って、いちばん上の右半分にさらさらと、
出版界での、
現在の菊池寛の地位
書いてみた。
書くことで自分を客観視しようとした。なるほど近ごろは書くもの書くもの好評である。旭日昇天(きょくじつしょうてん)の勢いともいえる。しかし一年半の新聞記者生活を経験した頭であらためて考えてみると、それはあくまで文芸という狭い分野での話である。そうとう小説というものに興味ある読者でないかぎり寛の名はまだまだ知らないと思うほうが現実的だろう。
そうして「中央公論」は総合雑誌である。文芸雑誌ではない。関心があるのは政治問題、社会問題だけ、小説のページは読み飛ばすという読者は実際少なくないと思われる。自分がこれから書く短編は、できるなら、そういう一般的というか非文学的というか、そんな読者にも読まれるようでありたい。
と、ここまで思考が進んだとき、寛の脳裡(のうり)には、ふと、
(部長)
職場の上司である千葉亀雄のことばが浮かんだ。千葉はつねづね、時代遅れのカイゼルひげを二本の指でつまみながら、
「菊池君。ジャーナリズムの妙諦(みょうたい)はね、読者の意表をつくことですよ。三人殺した犯人が子供のころから暴れん坊でしたっていうんじゃあ当たり前です。むしろ虫も殺せない優しい子でしたっていうほうが読者はよろこぶ。頭に残るんです。まあ新聞じゃあ話をこしらえるわけにはいきませんが」
これがきわめて正しいことは、寛自身、日々の仕事で実感していた。千葉は有能な人である。ところで意表をつくというのは、言いかえるなら、常識をひっくり返すということだろう。ならばこの場合の常識とはいったい何か。寛はしばらく考えて、原稿用紙の左半分に、
檜舞台
と書いた。「中央公論」は新人作家の檜舞台である。作家はここから有名になる。
寛自身の常識であり、文壇の常識であり、読者すべての常識である。これをひっくり返すとしたら、
「これだ」
寛は万年筆を置き、手をひろげて一枚目をつかんでくしゃくしゃにした。そうして横へぽいと投げてしまうと、二枚目のまんなかに、
無名!
大書した。
窓の外は暗いのに、卓上には小さな石油ランプしかないのに、目の前がぱあっと明るくなった。
「中央公論」で無名作家の話を書く。これほど場ちがいなことがあるだろうか。これなら読者は不意打ちを食らったような気になって、小説に興味があろうがなかろうが読んでしまうのではないか。タイトルはどうする。端的に行こう。寛はその紙をまた丸めて横に捨てて、三枚目の右四分の一くらいのところへ、さっきより小さい字で、
無名作家の日記
寛はしげしげとその字を見た。すわりがよろしい。くすぐりがある。「日記」というのも何かしら普通の小説とはちがうのだという合図になるのではないか。これはいい。決定だ。
いや、
「だめだ」
寛はつぶやき、万年筆の尻でコツコツと眼鏡のつるを小突き上げつつ思考を進めた。まだ足りない。中身はどうだ。せっかくタイトルで惹きつけることに成功しても、実際ほんとうに無名の人間しか出て来なかったら読者は興ざめではないか。これは同人誌ではない。商業雑誌なのである。やっぱり有名人も出さなければ。
考えてみれば、芥川もその手口を使っている。彼のおなじ雑誌での初登場短編「手巾」は、四百字詰め原稿用紙でわずか二十枚ほどのものだが、その主人公は「東京帝国法科大学教授、長谷川謹造(はせがわきんぞう)先生」である。いちおう架空の人物だけれども、その先生はドイツ留学の経験があって、奥さんがアメリカ人で、将来の日本の隆盛のためには日本古来の武士道を重視すべしと世間へさかんに訴えている。
モデルは明快である。東京帝国大学法科大学教授・新渡戸稲造(にとべいなぞう)。「中央公論」の読者はさだめし「ははあ、あの人だな」と察するだろう。あるいはこれからその新渡戸さんの悪口が聞けるものと期待するだろう。もちろんそれがすべてではないにしろ、少なくとも「手巾」の成功の最初の一歩はこういう世俗の餌(えさ)によるところが大きいのである。
それに実際、「手巾」はやんわりとながら、たしかに新渡戸のあの情緒的な武士道主義を批判していることでもある。ともあれその新渡戸稲造にあたるのは、寛においては誰であるべきか。
言いかえるなら、寛は誰の虎の威を借りるか。これはもうひとりしかいない。
「芥川だ」
芥川龍之介。まさしく「中央公論」を跳躍台にして世に出た有名作家。そう、俺はあいつの悪口を言うのだ。この「無名作家の日記」の主人公は俺自身だ。ひとりで京都にいたころの俺。友達はみんな東京の大学へ進学してしまって、彼らは同人誌をやりはじめた。
その同人誌へ、いい作品を発表した。それをきっかけにして芥川や久米などは商業雑誌へのデビューも果たしたのに、俺ひとりはこんな遠く離れた田舎でじめじめと陰気に暮らしている。本の少ない図書館に入りびたっている。そうして芥川たちを嫉妬し、呪詛(じゅそ)し、彼らが失敗すればいいとさえ思いはじめる……。
うん。これはおもしろい。読者はきっと興味を持つ。さだめし暴露ものの私小説だと思ってページをめくる者も多いにちがいないが、それならそれでいい。こっちは勝負をしているのだ。なりふり構ってなどいられないのである。
寛は万年筆をにぎりなおし、タイトルの左に「菊池寛」と書いた。それから本文を書いてみた。
九月十三日。
到頭(とうとう)京都へ来た。山野や桑田は、俺が彼等の圧迫に堪らなくなって、京都へ来たのだと思うかも知れない。が、何(ど)う思われたって構うものか。俺は成(な)る可(べ)く、彼等の事を考えないようにするのだ。
もちろん山野(やまの)は芥川であり、桑田(くわた)は久米である。仮名は暴露の予告編。いきなり挑発的な書き出し。そういえば京都時代の自分のことはかつて「黒潮」という無名の雑誌にたのまれて書いたことがあるけれど、これは掲載にいたらぬまま雑誌のほうが廃刊したから問題はない。どのみち題材はおなじでも、内容はまったく別ものなのである。
筆はすらすらと進んだ。山野=芥川にもらった手紙を「ズタズタに引き裂く」場面もつくったし(これは架空の場面だが)、京都の下宿でふと新聞をひろげたら「中央公論」の広告に芥川の名前を見つけて茫然としたというようなシーンも挿入した(これは事実)。
さすがに「中央公論」誌上で「中央公論」を呪詛の対象とするわけにはいかないので「△△△△」とみずから伏字にしておいたが、わかる読者にはもちろんわかる。結局、この晩は下書きしかできなかったが、翌日からは酒の誘いも断り、仕事もなるべく手早く終わらせて、毎晩のように家で原稿用紙に向かった。
われながら空恐ろしくなるような集中力だった。十数日後に「無名作家の日記」は完成した。
四百字詰め原稿用紙にして六十枚ほど。「手巾」の三倍。ラストシーンをどうするか決めかねたけれども、迷った末、わざと話をまとめず放り出すことにした。
最後の最後まで嫉妬しっぱなし、呪詛しっぱなし。その点では作品自体の完成度よりも、話題性というか、読者に残る印象の強さのほうを重視したわけで、純粋に芸術的な立場から見れば「よろしくない」と言う者もいるだろう。
ひょっとしたら通俗のにおいさえ嗅ぎ取る者もいるかもしれない。しかし寛に言わせれば、そんなのは高みの見物というもので、こっちとしてはまず何よりも結果を出さなければ二度とお呼びがかからないのだから芸術もへったくれもない。いっぺん結果を出してしまえば、お上品な面(つら)なんぞ、あとでいくらでもできるのである。
原稿を渡した数日後、編集者の高野は寛の家へ来て、
「あの、えー、先日いただいた御作ですがね」
「はい」
「中身はおもしろいんですが……」
寛はいずまいを正して、
「何か、問題が」
「編集主幹の滝田樗陰(たきたちょいん)が、これを載せたら芥川さんが怒りやしないかと気にしましてね。いちおう問い合わせてますんで、お知らせします」
寛はむっとした。もしも芥川が首を横にふったら掲載しないと言われたのである。そんな非文学的な判断があるだろうか。
けれどもこの瞬間、掲載になれば、
(成功する)
確信したことも事実だった。「中央公論」を発行部数が十万をこえるほどにまで育てあげた、これまで小説だけでも何千何万の原稿を読んで来たであろう滝田樗陰でさえそこまで心配になるなら、読者はもっとはらはらする。きっと一息に読んでしまう。寛は答えた。
「だいじょうぶですよ、高野さん。なるほどこの作品は僕自身の体験をもとにしてますが、テーマそのものは人間すべての胸中にひそむ嫉妬心です。友人という仮面の下の醜(みにく)い素顔です。だいいち芥川はこんなことで怒るやつじゃありません」
菊池寛「無名作家の日記」は、ぶじに掲載された。「中央公論」大正七年(一九一八)七月号。よほど評判が大きかったのだろう、刊行後まもなく寛の家へ、こんどは編集主幹・滝田樗陰がみずから訪ねて来て、人力車で本郷の燕楽軒(えんらくけん)へつれて行ってくれた。
寛など人の話でしか聞いたことのないようなフランス料理店である。ナイフとフォークをぎこちなく使って肉を切って口へ入れながら、寛は内心、
(もう一編、注文あるかな)
期待した。滝田は食後にこう言った。
「次からは、一か月おきに載せますから。どんどん書いてくださいよ」
寛は、これによくこたえた。すなわち、
「忠直卿行状記(ただなおきょうぎょうじょうき)」(九月号)
「青木の出京」(十一月号)
「恩讐の彼方に」(翌年一月号)
いずれも読者の評判となり、各紙誌で文壇の重鎮にほめられ、のちのちまで佳作と評されることになる。
滝田もたびたびご馳走してくれた。寛は文壇に登録された。ついに女神の前髪をつかんだのである。
芥川は、やっぱり怒らなかった。掲載のたびに横須賀から南鍋町の時事新報社へ来て、
「いいね、いいね。立派な作だ」
「ありがとう」
ただ何度目かに、しきりと寛の肩を叩きながら、
「僕は、そろそろ筆一本でやりたいんだ」
「そうか」
「君もやれるよ、菊池ひろし。どうだ、ひとつ骨を折ってやろう」
と言い放ったのは当惑した。好意は謝するに余りあるが、そこは記者室。まわりの同僚がいっせいに寛を見たのである。
寛は彼らへ、
「あ、いや」
と曖昧(あいまい)な笑みを浮かべてみせた。
数日後、芥川が、こんどは寛の家へ来た。居間でどさりとあぐらをかいて、
「決めたよ。僕はダイマイに行く」
「ほう。大毎(だいまい)」
と、寛はもちろん同業者だからすぐわかった。「大阪毎日新聞」、通称「大毎」は、社長・本山彦一(もとやまひこいち)の辣腕(らつわん)のもと数年前から部数を急拡大させていて、寛も他社の記者から、
「あの朝刊は、じき百万部をこえるよ」
などと聞いたことがある。
東京でも「東京日日新聞」という系列紙を発行しているので実質的に全国紙である。おそらく日本一の規模だろう。寛が、
「大毎の、いまの学芸部長は、たしか薄田淳介(すすきだじゅんすけ)氏だったかな」
と目を中空へ向けると、
「ああ、そうだ。僕はこれまで何度かあそこの夕刊に書いてるんだが……」
「もちろん知ってる。『戯作三昧(げさくざんまい)』、『地獄変(じごくへん)』、『邪宗門(じゃしゅうもん)』」
「『邪宗門』は中絶したけど」
と芥川は頭に手をやり、首をかしげるような仕草をしてから、
「それを通じて、薄田さんとは親しくなってね。むろん手紙のやりとりばかりなんだが、彼としては、今後はもっと紙面の文芸色を強めたい。小説が目当ての読者をふやしたい。そのため有望な作家には大いに投資するつもりで、社長の本山さんの了解も得てるんだと。まあ薄田さん自身、むかしは泣菫(きゅうきん)っていう号で『白羊宮(はくようきゅう)』なんて詩集を刊行して、大いに世の注目を集めた人だしね」
「読んだよ、中学生のころ。高松の図書館で」
「そうかい。とにかく僕は、そんなら僕を社員にしてくれって言ったんだ。かつて朝日新聞が漱石先生をそうしたように、月々いくらの報酬をくれてさ。快諾だったよ。これで僕は横須賀と別れられる。東京で筆一本の生活に入れるんだ」
上きげんで話しつづける芥川の、汗でひたいに貼りついた長い前髪をぼんやり見ながら、寛は、
(おどろいたな)
芥川の就職がではない。彼にそんな行動力というか、自分を売りこむ図々しさがあったことが意外だった。ふだんは実生活でも作品中でも都会人らしい繊細さで人の敬意を得ている彼は、その代償というべきか、つぶしがきかないところがある。
実利をともなう交渉が苦手なのである。寛もまあ人のことは言えないが、要するに文人以外になれない人間というか。この場合はたぶん薄田のほうが好意的で、なおかつ薄田も一種の文人記者であることが芥川に変な自信をつけさせたのにちがいなかった。
と、芥川は、
「菊池」
いずまいを正した。寛は、
「何だね」
「君も来ないか」
「えっ」
寛もあぐらをやめ、正座してしまう。芥川はその赤い唇をひらいて、
「君さえよければ手紙を書くよ、君も加えてもらえるよう。君はそれに値(あたい)する作家なんだ。なーに、むつかしく考える必要はない。原稿は求めに応じて送ればいいし、ほかの雑誌にも――新聞はまずいが――いくら書いてもいいんだからね。まあ報酬額が決まってないんで、決まったらまた言うから、前向きに……」
「たのむ」
と、寛は即座に返事した。ひたいが畳にぶつかるほど頭をさげて、
「ぜひお願いする」
大正八年(一九一九)二月、ふたりはそろって大阪毎日新聞の客員になった。
芥川は海軍機関学校をやめ、寛は時事新報社をやめ、それぞれ筆一本の生活に入った。報酬は月々百三十円、原稿料は別途支給。あの南榎町の裏通りの家の家賃が九円五十銭ほどだったことを考えると、とほうもない厚遇だった。
生活は、格段に楽になった。寛は引っ越した。新たな住所は小石川区中富坂町(なかとみざかまち)十七番地。前よりずいぶん家が大きく、環境もよく、それでも家賃は十三円だった。
ふたりは、記念に旅行した。長崎でいろいろのものを見物して、帰りに大阪で下車して、大阪毎日新聞を訪問して、編集会議でひとりずつ挨拶を兼ねたスピーチをした。
それから京都で葵祭を見た。葵祭なら学生のころにも見たけれど、見えかたがまったく変わっていた。すべての風景から泥や埃が落ちていた。京都をあとにして、東京へ帰るときの車中、関ヶ原あたりの車窓をぼんやりと見ながら、
(絶頂)
ふと寛は、その語が胸にきざした。
ふりかえれば、まわり道だらけの人生だった。蜻蛉釣りや百舌狩りに熱中した子供のころ。入学と退学をくりかえした学生生活。望んで得たわけではない新聞記者の仕事。しかし最後まで折ることをしなかった作家志望という名の心のなかの大黒柱。
それらがすべて、この日の自分にむすびついた。三十二歳にもなって、金の心配をせず、まるまる半月も旅行に出かけられるなど、考え得るかぎりの幸福ではないか。
「ありがとう」
ことばが、口をついて出た。
向かい側の席の芥川は、何か本を読んでいたが、
「え?」
目を上げて、きょとんとした顔をした。寛はその顔をまっすぐ見て、
「芥川君、ありがとう。君は生涯の恩人だ」
言ったとたん、涙があふれた。感激屋なのである。あわててチョッキからハンカチを出して、目の奥をふいた。ハンカチはもともと汗でしっとりしていた上に、眼鏡の裏にぶつかったため、眼鏡までもが白く汚れた。
芥川は、二十八である。横を向いて、
「よせよ」
はにかんだ。寛は、
「ありがとう。ありがとう」
眼鏡をはずして、大根でも洗うようにハンカチで乱暴にレンズをぬぐった。
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