今、アンチエイジングの限界に挑むビジネスが世界中で高い注目を集めている。グーグル共同創業者のラリー・ペイジは15億ドルを投じて不老不死を目指す研究所を立ち上げた。そして「寿命をあと100年延ばすことはできる」と発言している。
ここでは、ノンフィクション作家・河合香織氏がアンチエイジングの最先端を徹底取材した『老化は治療できるか』(文春新書)を一部抜粋して紹介。科学が解明した「健康長寿の睡眠習慣」とは?
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取材をする中で多くの研究者が口をそろえて挙げたのが、「睡眠」の質を高める生活習慣が、健康長寿の一つの条件だということだった。
では、睡眠の「量」や「質」とは、人にとってどのような意味を持つのだろうか。そして、睡眠と老化の関係とはどのようなものなのか。
大谷翔平の「寝る力」
2023年、日本中が沸いたワールドベースボールクラシック(WBC)で活躍した大谷翔平選手は、パフォーマンスを保つために「睡眠」を何より重視しているという。日本代表としてともに戦ったヌートバー選手が大谷選手を食事に誘った際、彼が「寝てる」と返事をして断ったこともニュースになった。
しかし、そもそもなぜ睡眠は重要なのか?
「人間が本来のパフォーマンスを発揮するためには、必要十分な睡眠時間を確保することが必須です。大谷選手が睡眠を理由に誘いを断ったことは、結果が求められるアスリートとして正しい態度だったと言えます」
そう語るのは筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構で、睡眠の謎について研究する柳沢正史機構長だ。1998年に睡眠と覚醒のスイッチング機能を担う脳内の神経伝達物質であるオレキシンを発見したことで知られる、睡眠研究の世界的な研究者である。日中に突然強い眠気に襲われる疾患であるナルコレプシーがこのオレキシンの欠乏によることを解明した。
ちなみに、オレキシンの産生細胞は、食欲や体重調整などに関わる脳の外側視床下部にのみ存在するため、食欲や欲望を表す古代ギリシャ語のorexisから派生して、オレキシンと名付けられたという。
日本人は睡眠で損をしている
ところで、ハードワークをするビジネスマンなどの中には「自分はショートスリーパーだから」と、1日の睡眠時間が4~5時間でも足りると豪語する人がいる。フランスの皇帝ナポレオンが1日に3時間しか眠らなかったというエピソードも有名だ。
だが、柳沢機構長は、「睡眠時間は遺伝子で決まりますが、実際に4~5時間で睡眠が足りている人は数百人に1人」と話す。個々人が必要とする睡眠時間は正規分布に近い分布をしていて、ほとんどの人は6~8時間程度必要となる。
とりわけ日本人は睡眠の「質」を考える以前に、睡眠の絶対的な「量」が足りていない。じつは世界で最も眠っていない国民は日本人で、その中でも東京の住民は最低睡眠時間だという。
「働き世代の日本人は圧倒的に睡眠不足であり、その睡眠の量は通勤時間とも相関しています。通勤時間が片道1時間のびると、平均睡眠時間は1時間、片道分だけ減る。都市部ではとくにその傾向にあります。そして、眠る時間があったとしても、眠らない人も多い。私に言わせれば、それは『覚醒』への依存症のようにさえ見えます。しかし、眠る間も惜しんで働くのは、経済的な意味でも、健康を守る上でも、ナンセンスです」
GDPと睡眠時間の関係性
睡眠時間は国の経済力とも関わってくる。世界の平均睡眠時間のデータによると、国民1人当たりのGDPと睡眠時間との間には強い正の相関関係があるが、日本は国民1人当たりのGDPが同程度であるニュージーランドやフランスと比べても、睡眠時間が約1時間少ない。日本の睡眠不足による経済損失は3%と試算されている。つまり、日本人みなが睡眠を改善すれば、それだけでGDPが3%上がることになる。
そして、この「1時間の差」は経済的なものだけではなく、寿命とも関連している。
睡眠時間と総死亡率に相関関係があることは昔からよく知られている。7時間睡眠が最も死亡率が低く、睡眠時間が減っていくにつれ死亡率が高くなる。古くはラットを眠らないようにした実験では、眠らなければ10日から2週間ほどで死に至った。それほどまでに眠ることは生命維持に必要なものである。
一方で、睡眠時間が長くなりすぎても死亡率が高くなるが、「寝すぎそのものが問題なのではない」と柳沢機構長は言う。
「そもそも人は必要以上に長く眠れません。長時間睡眠の人の寿命が短いのは、それだけ眠らなければならない何らかの身体の問題、たとえば睡眠時無呼吸症候群などを抱えているからだと考えられます」
睡眠不足で加齢は加速する
さらに寿命は睡眠の「質」とも関係する。
広く知られるように、人の睡眠のサイクルは「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」という質的に異なる二つの睡眠状態で構成されている。睡眠はノンレム睡眠から始まって、やがてレム睡眠に移行し、眠っている間は両者が繰り返される。ノンレム睡眠には深さが3段階あり、一番深い段階を深睡眠という。
ここで興味深い研究がある。2020年にスタンフォード大学などの研究グループによって発表された、レム睡眠の割合と死亡率との関係を調べたものだ。高齢男性を12年間追跡調査した結果、レム睡眠が5%減るごとに総死亡率が13%も上昇したというのだ。さらに心血管疾患による死亡リスクも11%上昇するという。
その後、研究グループが女性においても追試し、レム睡眠と死亡リスクの関係が有意であることがわかった。一方でノンレム睡眠の3つのステージとレム睡眠について死亡率を比較検討したところ、死亡率と最も関係するのはレム睡眠だとわかった。
なぜレム睡眠がそれほど寿命と関わるのかはまだ明らかになっていないが、「レム睡眠は夜の後半に増えてくるので、睡眠不足で最初に削られるのがレム睡眠だからではないかと考えられる」と柳沢機構長は述べる。
さらに、睡眠が減ると実年齢以上に加齢が加速してしまうという。
「睡眠は加齢とも相関しています。不十分で良くない睡眠を続けていると加齢関連疾患が加速します」
「レム睡眠」減少のリスク
たとえば、認知症。65歳の非認知症者1041人を対象としたコホート研究(疾病の要因と発症の関連を調べるために大勢の人を長期観察する研究)では、睡眠不足によって高まる認知症のリスクは4倍。一方で、レム睡眠が1%減るごとに認知症のリスクが9%増加することもわかっている。
さらに、メタボリック症候群も寿命と同様に7時間を底にJカーブを描いており、うつ病と睡眠の関係も明らかになっている。それだけ睡眠と加齢関連疾患との関係には根深いものがあるのだ。
「逆に、個々人の睡眠の詳しい様態は、脳の老化を表す一つのマーカーになりえます」
つまり、その人の睡眠の質を調べることによって、脳の老化の具合を判定できるということになる。
「年をとって寝られなくなった」「早く目が覚めるようになった」というお年寄りは多いが、確かに高齢になると睡眠時間は少しずつ減少する。さらに就寝時間も起床時刻も早くなるので、睡眠の中央時刻(就寝と起床の真ん中の時刻)が前倒しになり、若年者に比べて深睡眠とレム睡眠が減少していく。
「高齢者は中途覚醒が多く、連続した睡眠が維持できなくなる。良い睡眠は脳の加齢や身体の加齢関連疾患を予防すると考えられます」
だからといって、睡眠薬を使ってでも眠ればいいかといえば、必ずしもそうではないと柳沢機構長は言う。
「従来の睡眠薬を何年も続けて飲んでいると認知症のリスクが増えるという報告もあるし、薬によっては耐性や依存性が出るものもあるため注意が必要です」
睡眠負債という概念
柳沢機構長が発見した「オレキシン」の拮抗薬が不眠症治療薬として発売されている。オレキシン拮抗薬は髄液中のアミロイドβやリン酸化タウタンパク質を減らすという最新の研究もある。
「一晩だけの急性効果のデータであるため、認知症の予防になるかどうかはまだ分かりません。しかしこれは期待の持てる報告です。オレキシン受容体拮抗薬には依存性がないため、眠れるようになったら卒業できるという利点もあります」
付け加えると、マウスレベルの実験では、レム睡眠を人工的に増やしたマウスは、アルツハイマー病の原因となるアミロイドβが減ることも分かった。さらにレム睡眠増加マウスはストレス耐性が向上し、アルツハイマー病モデルマウスの実験でも、レム睡眠量が少ない個体ほど学習成績が悪い。
「これらのデータから、加齢の影響を少なくする一番の近道は、睡眠時間について考えることだと言えるのではないでしょうか」
では、睡眠が老化と深くかかわっているとするのであれば、その「質」や「量」を具体的にはどのようにコントロールすればいいのか。
ここで重要なのは、睡眠がいかに大切であっても、「寝溜め」することはできないということである。
「睡眠負債」は返済困難
そこで用いられるのが「睡眠負債」という概念だ。睡眠負債とは、睡眠不足が続いた際に累積した「本来寝るべき時間」のことである。負債を負わないのが一番だが、もしも溜まってしまったら、早めの返済が必要である。
「自覚的に十分に眠れているという健康な若者でも、実際には睡眠負債は1日1時間あり、それを完済するには4日間かかるという報告があります。この実験では、若者に好きなだけ寝るように指示すると、初日は10時間以上眠りました。これは一晩徹夜したあとの睡眠時間と同じくらいです。翌日からだんだんと睡眠時間が減ってきて、4~5日目には8時間半に落ち着きます。この状態は完全に充足した睡眠時間が取れていて、それ以上は眠れないということです。つまり、十分に眠れていると自覚していても、じつは睡眠負債を負っていることとなります」
とはいえ、睡眠負債を返済するために週末にたくさん眠ろうとしても、そこには社会的な日常と個人の生体リズムの不整合を表す「ソーシャルジェットラグ(社会的時差ボケ)」という問題もある。
柳沢機構長によれば、「休日の前日に夜遅くまで起きていて、翌朝は昼頃まで寝ている」という生活をしていると、睡眠中央時刻が崩れてしまう。土日に夜更かしをして月曜日の朝早くに起きて仕事に行った場合、人の体は「土日にインドあたりまで行って戻ってきたのと同じ時差ボケのような状態」になってしまう。
「つまり、自分にとって必要な睡眠を知り、そのペースを日常的に守ることは、それだけ重要なのです」
睡眠負債を減らす方法
では、個人にとって必要な睡眠時間はどれくらいなのか。最適とされる7時間だと考えていいのだろうか。
「先に述べたように、どれだけの睡眠時間が必要かは、遺伝子によって異なります。つまり、人によって違うということです。睡眠負債を減らすためには『自分で実験しながら必要な睡眠量を把握すること』が必要になります」
日常生活の中で「寝不足」の人が睡眠負債を解消する手法は、次のようなものだ。
(1)まず平日と休日の就寝・起床時間をほぼ同じにする(翌日が休みだからといって、夜更かしをしない)。
(2)就寝時間を普段より30分早める(仕事などで起床時間を動かせない場合)。
(3)その睡眠を5日間から1週間程度続ける。
(4)今までよりも体の調子が良いと感じるか、仕事などのパフォーマンスが向上したのかを確かめる。
(5)次にもう30分就寝を早めてみて、体の調子を見る。
(6)これで十分だという時点が理想的な睡眠時間である。
寝不足のサイン
この実験には、最大1カ月ほどかかる。ポイントは、自分では十分に睡眠をとれていると思っていても、じつはそれが正しいとは限らないということだ。人はなかなか自分の睡眠に敏感になれないということだろう。
「たとえば、日中に眠気を感じる人の多くは睡眠不足です。本当にその人にとって最適な睡眠時間が守れると、日中眠くならないし、体調も良くなって、表情も変わってくる。これまでいかに、もやっとした世界で生きていたかわかるはずです。そうすると自身の生活が充実してくるのが実感できるでしょう」
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