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「章男くん程度の社員ならば、ごろごろいる」トヨタを世界一にしたサラリーマン社長が抱いていた“創業家への感情”

「章男くん程度の社員ならば、ごろごろいる」トヨタを世界一にしたサラリーマン社長が抱いていた“創業家への感情”

児玉 博

出典 : #文春オンライン
ジャンル : #ノンフィクション

 1972年にトヨタ自動車に入社、のちに中国事務所総代表を務めた服部悦雄氏は、人呼んで「低迷していたトヨタの中国市場を大転換させた立役者」であり、「トヨタを世界一にした8代目社長、奥田碩を誰よりも知る男」。そして何より「豊田家の御曹司、豊田章男を社長にした男」なのだという。2018年に同社を去った服部氏は今、何を思うのか。

 ここでは『トヨタ 中国の怪物』(児玉博 著、文藝春秋)を一部抜粋して紹介。奥田碩と豊田章男のふたりに側近とした仕えた男が初めて明かす、「トヨタ中国進出」と「豊田家世襲の内幕」とは……。

トヨタ自動車の11代目社長(現会長)の豊田章男氏 ©時事通信社

◆◆◆

 まさに豊田家に“使用人”のように仕えた奥田だったが、図らずも、自らが社長となった後に野望を抱いた。それは、ある疑念から生じたものだった。

「豊田家は本当にトヨタに必要なのか?」

「創業家とはいえ、創業家に生まれたというだけで社長になるのは、おかしいのではないか……」

 たとえば、米フォードモーターの場合、いまだに創業家であるフォード家が、議決権ベースでおよそ40%の株式を保有しているのに対し、豊田家の場合は2%にも満たない。しかし、その影響力は絶大どころか、不可侵の存在にさえなっている。資本の論理からすれば、理解不可能な状況なのである。

 奥田の批判の矛先であった豊田家の家長、章一郎は、トヨタを離れ、経団連会長という財界トップの座についていた。しかしその章一郎は、こんな不満を服部に漏らすのだった。

6代目社長・豊田章一郎の素顔

 章一郎が経団連会長となって、しばらくしてのこと。中国から帰国していた服部は、トヨタ本社で章一郎に呼ばれた。

 当時、中国トヨタでは合弁の相手先として、「天津汽車」を選んでいた。服部はそのチームから外される形で、帰国を命じられた。天津汽車との合弁は、後にトヨタの足を引っ張り、中国市場参入の大きな障壁となるのだが、この時は誰も知るよしがなかった。

『トヨタ 中国の怪物』(児玉博 著、文藝春秋)

 章一郎は、いつも無表情に近い。喜んでいるのか、怒っているのか……摑みどころのない、のっぺりとした顔を服部に向けていた。

「会長」

 挨拶を終えた服部は、礼を失しないように気をつけながら声をかけた。章一郎が、上下の関係に異常なほど敏感なことは、長い付き合いでわかっていた。

 豊田英二は峻厳な人であり、いつも厳しい顔をしていたが、一旦交われば心を開き、服部を受け入れてくれた。日本人として服部が成長できるように、なにかと心を砕いてくれた。服部が読めない漢字などが出てくると、英二はその漢字を使った類語などを自ら書いて、

「勉強になるよ」

 と言って、手渡すような気遣いをしてくれた。服部は、そうした英二に接するのが好きだった。

「トヨタ生産方式」の生みの親

 1970年代、トヨタは度々中国大陸に技術者などを派遣し、中国の自動車メーカー「第一汽車」などの技術指導にあたった。その先頭には常に英二がたち、その英二を脇で支えていたのが、「トヨタ生産方式」の生みの親、大野耐一だった。

 英二といい、大野といい、根っからの技術者だった。トヨタに比べれば、まさに幼稚な技術しかなかった当時の第一汽車の技術者たちに対し、大野はとことん付き合った。どんなに稚拙な質問でも、嫌な顔一つせずに真摯に受け止め説明した。

 大野は質問を受けると、

「それはこういうことなんだ」

 と、車のエンジンルームに頭を突っ込んで、実地に説明を続けた。服部は、通訳として彼らの横に立ち、大野の言葉を伝えた。第一汽車の技術者が何度も同じ失敗をすると、大野は、

「君の翻訳が悪いんじゃないのか? どうして同じ間違いを何度もするんだ」

 と、キッと服部をにらみつけることもあった。大野のあまりの熱心さに、教えてもらっている方が、

「もう十分です。よくわかりました」

 などと言おうものなら、大野は顔を赤くして怒った。

「そんないい加減じゃダメだ。こっちも真剣にやってるのだから、最後まで君たちも真剣にやりなさい」

 大野の手は油に塗れていた。

章一郎氏が打ち明けた“不満”

 章一郎の前に立つ時、服部はなぜかいつも英二のことを思い出してしまう。知らず知らずの内に、2人を比較しているのかもしれなかった。服部は、人間味をもって接してくれる英二の方が好きだった。そんな服部の想いとは別に、章一郎ははっきりと、服部に不満を打ち明け始めた。

「服部君」

 章一郎の表情に変化はなかった。捉えどころのない、この表情が、服部と章一郎との距離を作っていた。

6代目社長・豊田章一郎氏 ©時事通信社

「服部君。僕は今ね、奥田君に左遷されているんだよ。僕は無視されているんだよ」

 服部は章一郎の思わぬ言葉に戸惑い、次の言葉を待った。

 章一郎は、長い付き合いの服部でも、いつもは気詰まりになるほど無口なのだが、この時はいつになく能弁だった。

「僕は無視されているんだよ」

 長年、欠かすことなく出席していたトヨタの「全国ディーラー大会」、「新車発表会」などの行事に、章一郎が招かれなくなったのだという。聞けば会長になって以来、奥田から、社業は自分がやるから財界活動に専念してくれと、何度も言われていたそうだ。しかしそれが、章一郎には不満だった。

 普段、ほとんど感情を表にすることのない章一郎が、珍しく感情を露にし、服部に訴えるのだった。もちろん、服部の後ろに奥田がいるのを、計算してのことだ。

「服部君、僕は無視されているんだよ」

 章一郎の口ぶりから、章一郎が発言以上の感情を、奥田に対して抱いているように感じられた。

8代目社長・奥田碩が出した答え

 早速、服部は奥田を訪ねた。服部の説明を、奥田はつまらなそうな表情で聞いていた。奥田は、章一郎の経営者としての手腕は評価していなかったが、創業家の長としての立場を慮り、経営にまつわることは逐一報告し、了承も得ていた。独断に見える奥田だが、こうした配慮は抜かりなくしていた。

「俺は気を使ってそうしてるんだけどな……」

 と漏らす奥田に、服部がとりなすように言った。

「それが裏目に出ているんだから、また呼んであげたらいいんじゃないですか?」

 奥田は章一郎の希望を入れて、トヨタ関連のイベントに、再び章一郎を呼ぶようになった――。

サラリーマン社長の功績

 奥田は社長時代に、世界的な環境保護の流れに乗り、ハイブリッドカー「プリウス」を発売し、時代を代表する車に仕立て上げた。2000年頃、世界のセレブたちは、こぞってプリウスに乗った。その一方で、「ダイハツ自動車」を連結対象の子会社にし、落ち続けていた国内販売台数もV字回復させた。

 1997年、米「ビジネスウィーク」誌は奥田を世界で最も優秀な経営者の一人として選出し、奥田は時代を代表する経営者、“強いトヨタ”の象徴となった。会長になった豊田家の家長、章一郎も、表立って奥田の意見に異を唱えることはなかった。トヨタを代表する顔は、創業家の豊田章一郎ではなく、完全にサラリーマン社長の奥田だった。

8代目社長・奥田碩氏 ©時事通信社

創業家に対する厳しい見方

 その奥田は創業家である「豊田家」に対して、非常に厳しい見方をしていた。トヨタ社員にとって聖域である豊田家について、公然と批判して憚ることがなかった。

「創業家は創業家として重んじるが、創業家に生まれたからといって、その人間がトヨタの社長になるのはおかしな話だ」

「創業家は尊重する。創業家はいわばトヨタの象徴、つまり“フラッグ(旗)”のような存在が一番望ましい」

 創業家は、旗のような象徴的な存在であるのが望ましい。つまり、経営には口を出してはならないというのが、奥田の考えだった。だから、章一郎が経団連会長という公的な存在であるのをいいことに、トヨタの重要行事である全国ディーラー大会、新車発表会に章一郎を呼ばなかったことは、奥田の遠回しの意思表示でもあった。

「章男君程度の社員ならば…」

 奥田の視線の先にあったのは、創業家4代目の跡取りであり、将来の社長と目されていた章一郎の長男、章男の存在だった。

「章男君程度の社員ならば、トヨタにはごろごろいる」

「(章男が)社長になれるかどうかは本人のがんばり次第だ。創業家に生まれたからといって、社長になれるものではない」

 奥田の意思ははっきりしていた。奥田は、まだひ弱さが残る章男を、評価していなかった。

 2001年、その章男を、中国市場を担当する「アジア本部本部長」に抜擢したのは、当時、会長職にあった奥田だった。

豊田家の御曹司を抜擢したわけ

「アジア本部本部長」はアジア全域を統括する責任者である。潜在的には世界一の市場となる可能性のある中国市場は、その中でも最も重要な地域だった。しかし、天津汽車との合弁、その契約を変えることができない中国共産党の政策が足枷となって、トヨタは先の展望が、まったく描けない状態になってしまった。いち早く中国に進出した海外メーカーや、日本の他社から大きく遅れを取っていた。

 当時、天津汽車はトヨタの子会社、ダイハツからの技術支援を受けて、小型車「シャレード(中国では夏利)」を生産していた。天津汽車は、国家から小型車の生産しか許されていない準大手で、そもそもフルラインナップの車種を持つ、“世界のトヨタ”が組むべき相手ではなかったのだ。

 その中国市場を統括する責任者に、豊田家の御曹司を充てたのは、奥田の“深謀遠慮”だった。つまり、中国市場での失敗はそのまま、社長への道が険しいものになることを意味していたからである。

 章男をアジア本部本部長に任命した奥田は、章男に、こんな言葉をかけた。

「トヨタはいくらでも中国(トヨタ)を支援するから、5000億でも6000億でも、中国市場を立て直すために使って構わない。ぜひがんばって欲しい」

深謀遠慮が生み出した人事

 奥田の投げかけた言葉の真の意味を、章男は理解しただろうか。5000億円でも、6000億円でも使って構わない、と奥田は言う。つまり、途方もない金をつぎ込んで失敗すれば、それこそ“ダメ経営者”の烙印を押しやすいというものだった。

 創業家はトヨタの象徴であり、旗であるが、創業家=社長という訳ではない。奥田の深謀遠慮が生み出した人事が、章男のアジア本部本部長就任だった。

 章男の双肩に、中国という重責が背負わされたのと同じ時、服部も中国に復帰する人事を受け取っていた。当初、奥田に呼ばれた服部に内示があったのは、新規事業として立ち上げる、バイオテクノロジー関連の研究所の所長というポストだった。その人事を断った服部は、中国事務所復帰という強い希望を奥田に伝えていた。最初は顔をしかめていた奥田だったが、最終的には、

「お前の願いを叶えた」

 と言って、中国市場への復帰を伝えた。服部の肩書は「トヨタ中国事務所総代表」というものだった。

「でも、天津(汽車)があれじゃあな……」

 奥田はこう言って、口を噤んだ。

北京入りの前に章男氏と面会

 数日後、服部の姿は、四川省の成都市にあった。すぐにでもトヨタ中国の事務所がある首都、北京に入りたかったが、まず服部が会わねばならなかった人物が、成都市に滞在していた。その人物は、アジア本部長となった章男だった。

 ほぼ初対面に等しい2人の顔合わせは、章男が宿泊しているホテルの部屋だった。部屋の扉をノックすると、すぐに扉が開き、章男の声が降ってきた。

「服部さん、ご無沙汰です」

 章男は笑顔で服部を迎えてくれた。けれども、風邪気味だと言う通り顔色も冴えず、あきらかに体調が悪そうだった。それでも、章男は笑顔を作っていた。

「わざわざ成都まですみません。北京でも良かったんだけれど、北京に入る前に服部さんと、どうしても話がしたかったので……」

 章男に、服部との面会を勧めたのは、父、章一郎だった。章一郎は、服部と奥田の付き合いの深さは、十分に承知していた。しかし、泥沼化している中国に裸同然で赴いて、頼りになるのは“中国人”の服部であり、その人脈しかないと、章一郎は見抜いていた。

豊田家の親子関係

 普段、章一郎と章男はさほど近しい親子関係ではない。いやむしろ、章男は父に対抗するようなところがあり、京都での料亭遊び、いわゆる茶屋遊びでも、父の馴染みの店には靴をぬごうとはしなかったし、行く店も、事前に父やその周辺の人間が来ていないことを確認してからでないと、行くことはなかった。

「いや、いや、私こそ、お会いできてよかったですよ。北京に行くと、2人で話すこともできないかもしれないから」

 章男はルームサービスで取っていたコーヒーを服部に勧めた。

「砂糖やミルクは必要ですか」

 豊田家の4代目は服部を気遣った。章一郎にはこんなことは絶対にしないだろう、と思いながら、服部はコーヒーにミルクを入れる章男を見ていた。

トヨタ自動車上郷工場のエンジン組み立てラインを5代目社長・豊田英二氏(左)の案内で見学する華国鋒中国首相(右)。中央は服部悦雄氏 ©文藝春秋

深々と頭を下げる姿に呆然

 章男はコーヒーを一口すすると、改まったように服部に向き直った。

「服部さん、私は中国のことを全く知りません。すべて服部さんに任せなさいと、名誉会長からも言われております。どうかよろしくお願いします」

 こう言うや章男は立ち上がり、そして深々と、服部に頭を下げるのだった。慌てたのは服部だった。豊田家の御曹司が、自分にこれほどまでに謙ってみせるとは、予想だにしていなかったからだ。服部は深々と頭を下げる章男を、しばし呆然と見ていた。そして我に返ると、バネのように椅子から立ち上がり、

「章男さん、僕みたいな男に、そんなことしちゃあダメですよ」

 と、頭を上げるように頼むのだった。

御曹司が見せた涙

 頭を上げた章男の目には、薄っすらと涙さえ浮かんでいた。章男は服部の顔を正面から見据えると、

「私を助けてください」

 と言って、再び頭を下げた。

 服部は、腹の底にこみ上げるものを感じながら、章男の手を握り締めた。豊田英二、章一郎と、創業家の人間たちと曲がりなりにも直接接し、創業家の重みを知る服部だったが、これほどまでに直接的な言葉で頭を下げ、助力を乞うてきた豊田家の人間は、章男が初めてだった。それだけに、未知の中国大陸と創業家の重圧を前に、不安を隠そうとしない男が哀れでもあり、またその素直さに強い好感を持った。

「章男さん、僕が全力で支えますから。トヨタで一番、中国のことを知っているのは僕ですから。僕に任せてください」

いざ北京へ

 数時間後、章男と服部は、成都から北京に向かう飛行機に共に乗り込んでいた。服部の北京復帰は、4年ぶりだった。

 かつてバラック小屋のようだった北京空港(現・北京首都国際空港)は、1999年に大規模改修がなされ、面積も3倍以上の国際空港として生まれ変わっていた。2008年の北京オリンピック開催を控え、第1ターミナル、第2ターミナルに次ぐ第3ターミナルと、新滑走路の建設も決まっていた。

 煌やかな、中国の飛躍的な発展を象徴するかのような、北京空港の全景が近づいてくる。服部の胸中は、それでも複雑だった。

怒りと憎悪の地を再訪

 服部は日本に帰国して以来、何度も北京と東京との間を行き来してきた。そこで生まれ、27歳まで育った中国の地は、服部にとって決して郷愁を呼び覚ますような土地ではなかった。

「中国にはいい思い出なんてない」「中国共産党の惨さは言葉にはできない」

 何度となくこう語る時、その語気には怒りと憎悪がこもった。表情は強張り、目尻に煙がたった。

 服部にとって怒りと憎悪の地、中国に再び戻ろうとしている。しかもこの時は、世界的な自動車メーカーのトヨタが世界で唯一後塵を拝する土地で、捲土重来を期する重大なミッションと、創業家の御曹司の命運が、服部の双肩にかかっていた。豊田家が最後に頼りにしたのは、トヨタにとっては“異邦人”である服部しかおらず、また、服部がその才を十分に発揮できる場所も、中国しかなかった。その、章一郎と章男が創業家の命運をゆだねた“中国の怪物”、服部悦雄は、いかにして誕生したのか。

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