理学部と弾道計算
こうしたなか、理学部数学教室は、教室全体が諏訪、茅野など長野地方に疎開。勤労動員で軍の計算機としての役割を果たしていた。その事情はこういうことだ。
「昭和20年4月に入学してすぐに諏訪に疎開しました。玉音放送は諏訪・長地村の小学校で聞きました。負け戦だと知っていましたので、衝撃はありませんでした。疎開は、東京にいては危ないという小平邦彦先生の勧めを受け、数学と物理の教室がしました。大学からまとめて荷物を発送するため、練馬の家から父と一緒にリヤカーで布団や本を大学まで運んだことを覚えています。坂が多くて大変でした。
長野では下諏訪の温泉旅館に泊まりながら、長地村の小学校の教室を借り、そこで授業をしていました」(小山昭雄/元学習院大教授/理学部数学教室/昭和23年3月卒)
養蚕場でロケット開発
「終戦当時は2年生で、長野県の青木村に疎開していました。青木村には、養蚕場に間借りしていた航空計数研究所があり、ロケットの弾道計算などをしていました。数学科からは私たち3人が、勤労動員としてそこに行き、計算をしました。先生は物理の先生が1人行っていました。当時はロケットなどなかったのですが、それでもとにかく計算だけはしていたわけです」(金子哲夫/元敬和学園大教授/理学部数学教室/昭和21年9月卒)
「終戦当時は数学教室ごと、下諏訪の長地小に疎開していました。疎開前の昭和19年夏ごろからは、教室全体で海軍技術研究所に勤労動員に行きました。そこでは、手廻し式のタイガー計算器が何十台かあり、動員された女学生たちが計算をしていました。私たちは、計算をチェックしたり、計算がしやすいように図表をつくったりしました。おそらく兵器や防空のためだったのだろうと思います。この動員は20年の8月まで続き、そのため3年時の授業はほとんどありませんでした。
20年8月になると、卒業が近いということで学校に戻ることになり、教室全体で長野に疎開しました。確か、広島に原爆が落ちた後のことだったと思います。疎開先の小学校では、体操場のような場所に先生の机や本などを運び込んでいました。授業はなく、それぞれ本を読むなどしていたと思います。
終戦の前日、先生に『明日、集まれ』と言われました。学生たちは、それとなしに敗戦の放送だということはわかっていました。当日は、確か先生たちが寝泊まりしている場所に20人ぐらいが集まりましたが、放送はガーガーと音がして聞こえませんでした。
終戦となってホッとした人もいましたし、やっぱり負けたかと残念に思う人もいました。私は前日から敗戦は覚悟していましたし、淡々と受け止めました。これから日本の復興のためにがんばろう、これで静かになって勉強に打ち込める、という思いもあったように思います」(丸山文行/元資源協会参与/理学部数学教室/昭和20年9月卒)
文学部まるごと新潟へ
ここまで東大のなかでも理系を中心に見てきた。委託学生としてキャンパスを離れた者は多かったが、人数の点で見れば、理系の学部は医学部や工学部など定員を大幅に増加して、空前の大繁栄をほこっていた。また、委託学生としての任務も、基本的には研究開発や本土防衛のための準備(土木作業など)であって、兵士として最前線に立つものは決して大多数ではない。
しかし、これが文系の学生になると様相が一変する。やはり連載68回に書いたことだが、文系の多くの学生が最前線に投入された。昭和18年から学徒出陣が始まるが、『東京大学の学徒動員・学徒出陣』(東大出版会)には、在籍者(学部生)8798人中、昭和19年8月時点で徴兵猶予取り消しとなって入営した3157名の内訳を、次のような数字で紹介している。
法学部 | 1433名(66.80%) |
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経済学部 | 846名(70.91%) |
文学部 | 648名(54.96%) |
農学部 | 162名(25.71%) |
工学部 | 32名(2.49%) |
第二工学部 | 17名(1.34%) |
理学部 | 12名(2.64%) |
医学部 | 7名(1.07%) |
新潟で農作業
文系では文学部の入営率が一番低いが、勤労動員に学部単位で駆り出されていた。昭和19年3月には全員が静岡県へ土木工事など、6月から8月には3年以上が横須賀海軍工廠へ派遣された。昭和20年に入ると、1月から3月まで1年生は中島飛行機群馬県小泉工場に、2、3年生は中島飛行機三鷹研究所に動員された。5月に入ると新潟県岩船郡関谷村に送られて農作業などに従事した。また、こうした動員地から、次々と戦地に徴兵されていった。
これらの動員にあたっては身体虚弱者は免除されたが、事前の身体検査を受けない者や不参加の者には懲戒処分をくだす警告が主任教授からなされたり、勤労成績の悪いものは単位不合格となった。
「私は8月15日を勤労奉仕先の新潟県の関谷村で迎えました。20年4月に入学すると、5月の終りから6月はじめ頃にはかり出されたのです。すでに学徒出陣のニュースは何度も見ていましたので、大学入学前から学業を中断しての勤労奉仕はあるものだと覚悟していました。
新潟へは文学部全体で行っています。当時、社会学をやっていた教室の助手が関谷村の村長の息子さんだった。そんな縁があって、関谷村へ行くことになったように聞いています」(藤岡忠美/昭和女子大学名誉教授・神戸大学名誉教授/文学部国文学科/昭和23年3月卒)
「2年生の夏、新潟県の国鉄米坂線沿線にある関谷村で終戦を迎えました。勤労動員で、農作業の手伝いをしていたのです。その年の5月の初めに村についたときは、山かげには残雪も見られ、桃や桜が満開で、ようやく田植えの準備が始まろうとしていました。鍬を担いで連日田畑に通いましたが、その間にも召集令状が来て、仲間がひとり、またひとりと戦地に去っていきました。
8月7日はお盆の入りで仕事が休みでした。広島で新型爆弾が使われたらしいという話が伝わってきましたが、新潟にいる我々には遠いところの出来事のように思われました。むしろ、9日のソ連参戦のニュースのほうが切実で、村の人も不安を募らせていました。
8月15日に『甚九郎』という家に集まるようお触れがまわってきました。近くではここにしかラジオがなかったのです。村人たちと私を含めた学生3、4人が板張りの床のむしろのうえに座って、かしこまって終戦の大詔を聞きました」
ソ連軍が攻めてくる
「茫然自失とはこのことをいうのでしょうか。戦争に敗けたとはどういうことなのか、これから何が起るのか、まったく考えることができませんでした。そのうちどこからともなく、『男は殺され、女はみな暴行されるだろう』『新潟はソ連に近いから真っ先に襲われるだろう』といった噂が広がり、不安な気持ちで過ごしました。16日に大学職員が村の各集落を廻って歩きましたが、我々の見通しは立ちませんでした。
しかしその翌日、文学部長である西洋史学の今井登志喜先生がきて、村の中央にある大蔵神社で次のような話をされました。
『今、日本は有史以来かつて経験したことのない敗戦という事態に直面している。君たちは決して軽挙妄動してはならない。聞けば敵軍が上陸して日本の男を皆殺しにし、女には手当たり次第暴行を加えるという流言が乱れ飛んでいるようだが、決してそういうことはない。戦争終結の処理は軍が勝手にやるものではなく、まず相手国の代表と互いに文書に調印して初めて、それに従って敗戦国に手を着けるのである。これは国際法の定めるところであって、それ以外の勝手な暴虐はいわばリンチである。そんなことをしたら世界の世論が許さない』
温顔をもって語る口調のなかに毅然としたものがあり、私は深く感動しました。
軍や警察などの強い者は、弱い国民に対していかなる横暴もまかり通る――それが日本の常識でした。それだけに、敵軍が法に従うなどというのは、到底考えられないことでした。また、『世界の世論』という概念も初めて耳にするもので、大変新鮮でした。
先生の言が過たなかったことは、その後のミズーリ号上の降伏文書調印、軍隊の武装解除・施設の接収、東京裁判の開始に照らして、明らかであったと思います。我々は稲刈りが終るまで手伝いを続け、9月に東京に戻りました。そのときは、当初100名の仲間が50名に減っていました」(松田登/元教員/文学部国文学科/昭和23年3月卒)
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