
ところが、何日かすると、乳飲み子を置き去りにして、父親であるその浪人が姿をくらましてしまう。なんとか仕官をして戻ってくるから、それまで預かっていてほしいという手紙を残して。
その日から、信兵衛の、好きな酒をやめ、長屋の女に乳を貰い、泣く子をあやすという、子育ての日々が始まることになる。
このように、不意に眼の前に現れた赤ん坊を育てるために、大の男がてんやわんやの日々を送るという物語は珍しくない。
映画の領域では、戦前にチャーリー・チャップリンの『キッド』があったし、戦後でも『赤ちゃんに乾杯!』といった佳品がある。
もしかしたら、映画好きだった山本周五郎の頭の片隅にはチャップリンの『キッド』がなくはなかったかもしれない。
私は、少年時代に東映の時代劇映画をよく見たが、この「人情裏長屋」は、まさにその東映時代劇の世界の雰囲気と共通するものがある。
当時の記憶に従って登場人物のキャスティングをすれば、信兵衛は若き日の大友柳太朗がぴったりだろうし、子育てを助けてくれる長屋の娘は丘さとみがふさわしい。そんなことを考えていると、大友柳太朗が赤ん坊を抱いて必死にあやしているあのコミカルな演技が浮かんできそうだ。
この「人情裏長屋」は、山本周五郎に短編作家としての頂点が訪れる何年か前の作品であるため、少し文章の密度が薄いように思えなくもない。
しかし、あえてそれをこの「名品館」に選んだのは、私の東映の時代劇に対するノスタルジーであったかもしれない。
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