とりわけ、「かあちゃん」におけるお勝一家の強靭な無私の精神には心を打たれる。よくある人情話のように見えて、これほど完璧に、これほど美しく仕上げられた例を知らない。すれっからしの読者である私のような者でも、ふっと涙が流れそうになる瞬間があったりする。
それを支えているのが、ここで起きているすべてが極めて貧しい世界の行為だということを巧みに表現している細部のリアリティーである。
久しぶりの酒が出た食卓で、お勝の息子のひとりが茶碗で飲もうとする。しかし、その酒が、大勢に対してわずか銚子一本の量だと知って、茶碗を引っ込める。
《「じゃあ小さいのにしよう」と三郎は茶碗を戻した、「ひとなめずつとなると、大きいのは損だ、大きいのは茶碗のまわりへくっついちゃうからな」》
そうした貧しさの中で、彼らはある目的のために必死に金を貯めているのだ。
「あすなろう」
これは「かあちゃん」とは正反対に、いったいどのような方向に進むのか、なかなかわからない物語である。
二人の男の掛け合いのような会話が続いていく。やがて、ひとりが女をたぶらかしては売り飛ばす、女衒のような女たらしだということがわかり、もうひとりが目明かしたちに追われている凶状持ちだということがわかってくる。
そして、その夜もまた、女たらしが、大きな商家の娘に金を持ってこさせた上、飽きれば売り飛ばそうとしているということを知って、凶状持ちの男はひとつの決心をすることになる。