たとえば井伏鱒二の『黒い雨』とならんで原爆文学の傑作とされる作品に、原民喜の『夏の花』がある。本書の第五章は「原民喜――『死と愛と孤独』の自画像」として、原とその妻となった貞恵の物語である(ここではもう一人、原の自死の一年余り前に突然彼の前に現われ、〈最晩年を癒やした「奇跡の少女」〉についても一節が割かれている)。
「神経過敏で極端に無口だった原は三〇歳を過ぎても一人で人前に出ることができず、近くの町医者に行くのにも貞恵に付き添ってもらうほどだった」と書かれる民喜は、結婚後一〇年余りで、最愛の妻貞恵を亡くす。その時から民喜は死を考え始めたのであったが、それよりも過酷な運命が彼を襲う。広島で原爆の投下に遭ったのである。彼自身はたまたま便所にいて閃光を直接浴びることがなく、怪我も火傷も負わなかったが、市内の惨状をつぶさに見ることになり、「我ハ奇蹟的ニ無傷ナリシモ コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ」と気づくのである。妻を追っての死が六年延びたことになる。
「夏の花」の冒頭は「私は街に出て花を買ふと、妻の墓を訪れようと思つた」で始まる。原稿用紙一枚ほどの短い冒頭の一節である。
「持つて来た線香にマツチをつけ、黙礼を済ますと私はかたはらの井戸で水を呑んだ。それから、饒津公園の方を廻つて家に戻つたのであるが、その日も、その翌日も、私のポケツトは線香の匂ひがしみこんでゐた。原子爆弾に襲はれたのは、その翌々日のことであつた」(引用は原文ママ)と続くが、作者梯久美子さんは、この日の原民喜の歩いた道を辿る。この冒頭の一節が、後の原爆に襲われた街の悲惨な描写と「痛切な対照」をなすと考えたからである。
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