被造物は神によって造られたすべてのもののことだ、物体的であるとないとにかかわらず、ありとしあるもの全体を考察して、それらの中に不変なものはまったくないと知りなさい、そしてそれらのことは遠くにどけて、ただひたすら精神を注意深く働かせることによって神の不変の実体へと進んでいくこと、これは偉大なことであり、きわめて稀にしかできないことなのである。
「その際、神は、なんらかの物体的被造物をとおして、つまり、身体的な耳に聞きとれるよう音声を発する者とそれを聞く者との間に介在する空気の拡がりを震動させるようにして、人間と語られるわけではないのである。」
人が神の不変の実体にふれる際、神は物体的な次元を超越しているのだから、空気という物体を震動させて声を耳に届かせるような方法で人間と語られたりはしない。
神は目や耳などの感覚器官を通じてわかるようなものではない、感覚器官はむしろ人を神から遠ざける、感覚器官を拠り所とすると人は神が見えなくなる。
私はゆうべ友達の両手に包まれて死んでいった子猫を見ていない、当然ふれてもいない、子猫を大人の手のひらにおさまるくらいという小ささで想像しただけだった、色や柄も聞いてない、子猫に不馴れな二人だったから見た目をうまく伝えられないし、生まれたばかりの子猫は色も柄もくしゃくしゃもわもわしててもともとよくわからない。
この続きは、「文學界」12月号に全文掲載されています。
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