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『夜叉の都』伊東潤――立ち読み

『夜叉の都』伊東潤――立ち読み

伊東 潤

電子版32号

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

「別冊文藝春秋 電子版32号」(文藝春秋 編)

 隣で医家が何か言っているが、その言葉は頭を素通りしていく。

 三幡が三歳の時に行われた「髪置き」の日のことを、政子はよく覚えている。「髪置き」とは、幼児が髪を伸ばし始める三歳の頃、無事な生育を願って行われる儀式のことだ。その時、頼朝はもちろんのこと、大姫と頼家もそれぞれの乳父の家から集まって食事をした。ただそれだけのことだが、頼朝一家にとっては一年に何度もあることではない。この時ばかりは乳母や女房たちも次の間に下がっているので、政子は子供たちと話をしながら、晴れ着が汚れないよう、三幡の世話を焼いていた。

 ――あの時が、私の幸せの頂点だったのかもしれない。

 その時になって、ようやく法印の声が耳に届いた。

「尼御台様、三幡様は

「ああ、分かっておる。三幡は亡くなったのだな」

「残念ですが、身罷られました」

 神妙な顔で法印や薬師が下がり、背後から女房たちのすすり泣きが聞こえてきた。だが政子だけは、三幡が亡骸になったという実感がわかない。

 ――もはや悲しみの涙も乾いたのか。

 三幡の顔を見ていると、ただ眠っているとしか思えない。

 建久十年三月二日、頼朝の四十九日の仏事を執り行ってから三日後のことだった。三幡が風病(風邪)にかかったとの報告が入り、急いで三幡の住む中原親能の屋敷に行ったが、三幡は少しばかり熱があるだけで元気にしており、政子は歓談して帰ってきた。

別冊文藝春秋からうまれた本

電子書籍
別冊文藝春秋 電子版32号(2020年7月号)
文藝春秋・編

発売日:2020年06月19日

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