これまで三幡は病一つしたことなく、いつも走り回っている印象のある元気な子だったので、政子は杞憂を笑ったものだ。ところがその三日後、容体が急変し、高熱を発して瞬く間に危篤に陥った。
慌てた政子は鎌倉中の大社大寺に病気平癒の祈禱を依頼し、都にいる鍼の名医の丹羽時長に鎌倉下向を依頼した。だが時長は仕掛かりの仕事があるとかで、なかなか来てくれない。そこで後鳥羽上皇から院宣を出してもらい、五月六日、ようやく時長が到着した。
その甲斐あってか五月の下旬には、三幡は食事が取れるほど回復したが、時長は渋い顔のままだった。その後も鍼治療は続けられたが、六月の半ばになると病状は再び悪化し、遂に時長も首を左右に振った。
そして六月三十日、三幡は息を引き取った。享年は十四だった。政子は建久八年(一一九七)に長女の大姫を失っており、これで血を分けた娘はいなくなった。
――大切な者たちが、私の許から去っていく。
ここ二年で、政子は夫と二人の娘を立て続けに失った。だが別れの悲しみに慣れてしまったのか、なぜか涙はわいてこない。
周囲の者たちに矢継ぎ早に指示を飛ばし、政子が葬儀の支度を整えていると、「中将家様、御成り」という声が聞こえた。
同年四月六日、頼朝が就いていた日本国総追捕使の職を、頼家が引き継ぐことを承認する使者が京から着き、頼家は晴れて鎌倉殿となった。だが征夷大将軍の宣下はまだなので、朝廷を憚った鎌倉府の者たちは、公式の場では中将家ないしは左衛門督と呼んでいた。
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