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うつ病当事者でなければ書けなかった第一級のノンフィクション

うつ病当事者でなければ書けなかった第一級のノンフィクション

文:佐藤 優 (作家・元外務省主任分析官)

『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』(先崎 学)

出典 : #文庫解説
ジャンル : #随筆・コミックエッセイ

『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』(先崎 学)

 うつ病が「どこまでいっても当事者以外には理解できない病気なんだ」という先崎氏の兄の指摘には説得力がある。〈兄はいつも疲れているから、こんなぶっきらぼうな口調が多い。ただしこの日は珍しく饒舌になった。/「人間というのは自分の理性で分からない物事に直面すると、自然と遠ざかるようになっているんだ。うつ病というのはまさにそれだ。何が苦しいのか、まわりはまったく分からない。いくら病気についての知識が普及したところで、どこまでいっても当事者以外には理解できない病気なんだよ。学はよく分かるだろう」/たしかに、私もうつ病に対しては、兄のこともあってすこしは人より知っているつもりだったが、自分がなってみると知らないことばかりだった。体が鉛のようになること、何事も悪いほうにとること、決断ができなくなること、何も考えることができなくなること、すこしずつ、本当にすこしずつよくなってゆくこと……。/「偏見はなくならないよ。だけど、そのことを知っていながら世の中に対し立ち向かう医者もいる。尊敬するよ。でも、たいがいの医者は目の前の患者を救うことで忙しすぎて、そこまでできないんだ。歯がゆいよ。だいたいいまだに心の病気といわれている。うつ病は完全に脳の病気なのに」〉。

 世の中には当事者以外には理解できない事柄がたくさんある。うつ病もそういう事柄の1つなのだ。しかし、当事者以外にわからないからといって、わかろうとする努力を放棄してはいけない。うつ病でなくても、人間は複雑な存在なので、他者を完全に理解することは不可能だ。しかし、他者を理解するという「不可能の可能性」に挑むことを、われわれは放棄してはいけないのだと思う。

(2020年5月5日脱稿)

うつ病九段
プロ棋士が将棋を失くした一年間
先崎学

定価:本体600円+税発売日:2020年07月08日

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