辻村 私が大好きなシーンは、大林が去ったあと、税務署から彼のせいで発生した未納分の督促通知が大量に届いて、奈津が泣き崩れるところなんですよ。また、恋愛とは別に、奈津とお父さんとの別れも描かれて、恋愛一辺倒になりそうな物語の中に家族との場面が入ってくるので、なおさら「生きていくってこういうことなんだよな」って思えたり。これから先、自分が経験するかもしれないことを先に小説で読ませてもらえた気がしたんです。
村山 ご存じのように、『ダブル・ファンタジー』も『ミルク・アンド・ハニー』も実際に私の身に起きたことをもとに書いていった小説なんですけれども、『ダブル・ファンタジー』を書き始めた時には二番目の夫になる大林なんて影も形も存在しなかったし、『ミルク・アンド・ハニー』の連載を始めた時は私の父もまだまだ元気でした。連載の先々のことも、自分の人生の転がり方も見えないまま、手探りで書いていたんです。
どこで終わるかは、もちろんずっと考えながら連載してましたけど、ここを越えたら最終回にしよう、と思っていたタイミングで父の身に大変な出来事が起きて、「もう少し書いてみたい。そこでまた見える景色があると思う」と編集者に相談して、さらに書き進めて……。
辻村 あれだけ先が読めないのは、現在進行形の物語だったからなんですね。
村山 最初に『ダブル・ファンタジー』の連載を始めた頃、とある先輩作家から言われたんですよ。「あなたがそういう経験をしたことは知ってるけど、もう書いちゃうの? もっと熟成させてから言葉にしないと、文学としての深まりがないんじゃないか」と。その時、反射的に思ったのは「たしかに一理あるかもしれないけれど、何年かたって、まだこの話を書きたいと思えているかどうか責任を持てないよ」って。私はいまこれを一番書きたい。このナマの感覚をいま書き留めておきたいんだ、と。いったん体の上を過ぎていってしまうと、同じ私が経験したことでも、3年後の私はこれをもう言葉にできないかもしれない。それは絶対に嫌だと思ったんです。
■奈津は冷静に一線を越える
辻村 解説を書かせていただくにあたって、久しぶりに2作を再読して驚いたのは、奈津が自分自身の心の動きを正確に俯瞰して見ていることでした。恋愛している自分が正常じゃないことをしっかりわかっている。わかっていて、のめり込んでいくんですよね。奈津ってあらゆることについて一線を越えていくんですけど、それが決して闇雲でない。古いタイプのフィクションだと、奈津の行動を単に「衝動的」という言葉で形容すると思うんです。でも、奈津は、慎重にあらゆる可能性を見定め、いろんな情報を取ったうえで冷静に一線を越える。その姿が、傍からは衝動的に見えるだけなんだなとわかったんです。
誰だって「やっちゃダメ」と思ってる時ほど慎重になるし、冷静に先を見極めた上で、それでもきっと抗えずに手を伸ばしてしまう。この恋愛の本質を言い当てられてしまうから、みんな夢中になるし、奈津の一挙手一投足から目が離せなくなるんじゃないかなと。
村山 そこに気がついてくださるのは、おそらく辻村さんの中にも似た種があるんだと思うんですよ。辻村さんの直木賞受賞作『鍵のない夢を見る』(2012年)を読ませていただいたんだけども、収録されている「芹葉大学の夢と殺人」を読んでいる間じゅう、この主人公の感情は私、確かに知っているぞと、デジャヴにも似た感じを覚えたんです。
辻村 うれしい! そんなふうに言っていただけて。
村山 この中編には、いつまでも夢を追い続ける雄大(ゆうだい)くんという大学生が出てきますよね。かたやちゃんと大学を卒業し、高校の教師になっても彼との交際を続けている主人公の未玖(みく)が、雄大くんの愚かさに呆然とする感じとか、彼のダメさを十分すぎるほどわかっていながら別れられないところとか、自分もこの気持ちは覚えがある、と胸が痛くなりました。
傍から見たら、未玖はヘンな男に騙されて尽くしちゃっただけの可哀想な女かもしれない。でも、実は彼女は自分のやっていることも、雄大が底の浅い男であることもちゃんと見えていて、なおかつ別れないんです。未玖の気持ちがわかる女性、結構いるんじゃないかな……。
そしてこの雄大くんの描かれ方の秀逸さといったら! 読んでるだけでメチャメチャ苛々するんですけど、こういう男もまた確実にいる(笑)。私、この本を読んで、自分が作家としてここまで意地悪な目線を登場人物に対して持つことができているかなと――これは褒め言葉として言ってるんですけど、すごく勉強になったんですよ。
辻村 ありがとうございます。