◆殺人疑惑
文久二年十月、慎太郎は「五十人組」の一員として、土佐を出国した。ちなみに、小説中では、慎太郎はこの出国を「藩のお役目」と妻の兼(かね)に説明しているが、実際の五十人組は、藩主・山内豊範の江戸参勤に加われなかった有志五十名が、江戸にいる山内容堂の身辺警護を名目に(当時、越前の松平春嶽[まつだいらしゅんがく]らと共に幕政改革に携わり、参勤交代の緩和などを進めた容堂は、大名や諸藩士相手の商売で生計を立てていた江戸の人々から恨まれ、危害を加えようとする者もいるという風説があった)、藩庁に出国願いを提出し、返答を待たずに発ったものだった。
この頃、朝廷から幕府へ向けて、攘夷実行を迫る勅使の派遣が進められていた。いまにも時勢が動こうかという時期だけに、慎太郎たちはいてもたってもいられず、行動に移したのだ。ともすれば、集団脱藩扱いになってもおかしくなかったが、土佐勤王党に好意的な上士・平井善之丞の配慮もあり、事後承諾ながら、五十人組の出国は正式に認められた。慎太郎たちはこれを機に、京や江戸などで諸藩の志士と交わった。
ところで、十一月二日、広田(弘田)章次という土佐藩の下横目(下級偵吏)が、伏見で殺された。この事件に、慎太郎らが関わった疑いがあるのだ。
在京していた勤王党員・千屋(ちや)菊次郎の日記(『再遊筆記』)によれば、前日、慎太郎は伏見に向かった。そして事件当日の十一月二日、五十人組の河野万寿弥(こうのますや)(敏鎌)、村田忠三郎が「故有(ゆえあ)って」伏見へ向かい、同日の晩、三人はそろって伏見から帰京している。
この文久二年は、天誅の嵐が吹き荒れた年であり、以前にも、吉田東洋暗殺の下手人を嗅ぎまわっていた下横目が、勤王党の手にかかって殺されている。広田章次もまた、同様の理由で命を狙われたのかもしれず、状況から見て、刺客の一人が慎太郎だった可能性は十分に考えられる(小説中の、慎太郎が密偵を殺害した話は、この事件をモデルにした)。
その後も慎太郎は、幾度も死線をくぐることになるが、これ以降、暗殺に関わったと疑われるような記録はない。たまたまそうした機会がなかったのか、それとも、彼の中で、なにか思うところがあったのだろうか。
◆新井(にい)竹次郎の死
慎太郎の故郷の友人・新井竹次郎は、もとは北川竹次郎といい、香美郡香宗土居村の庄屋の次男に生まれた(慎太郎より一歳年下)。竹次郎は文武に志が高く、高知城下に出て藩士・山田八右衛門に仕え、山田の大坂赴任に同行し、同地で池内大学に師事したという。ところが、親戚の新井林左衛門(北川郷総老[そうとしより]。大庄屋の補佐役)が、老齢だが後継ぎがいないというので、竹次郎に養子の話が持ち込まれた。竹次郎はこれを嫌がったが、慎太郎は懇切に彼を説得した。
文久元年十一月二十六日に、慎太郎が竹次郎に宛てた書状が残っている。
「ある人は君のことをこう言うかもしれない。“竹次郎があのように学問をするのは、名門貴族を継ぎたい野心のためだろうか”僕はこう答えるだろう。“決してそのようなことではない。丈夫は志を立てて学問をするものだ。彼が継がんとするのは大道のみであり、一家一族のことなどと比べられはしない”と」
「なにぶん、君は大道に志がある方であり、必ず志を遂げられるに違いない。(大庄屋の後継として将来が定められている)僕ですら、未だ志を捨ててはいない。まして君においては、なおさらのことだろう」
慎太郎の説く「志」「大道」とは、時期から見て、志士として、国事に身を投じることを意味しているのであろう。農家を継ごうとも、志を捨てる必要はない。いつか、日本のために働く機会は巡って来る。……それはあたかも、竹次郎のみならず、慎太郎自身に向けられた言葉のようであった。この説得に、竹次郎も心を動かされたのか、彼は養子入りに応じ、北川郷で新井家を継いだ。
しかし、慎太郎がそうであったように、「大道」への志を抱く竹次郎もまた、山間に己を埋め続けられる若者ではなかった。元治元年七月、「野根山二十三士」の決起に加わった彼は、九月五日、奈半利川河畔で処刑され、二十六歳の生涯を閉じた。
◆陸援隊、起つ
慶応三年十二月九日、王政復古の大号令が発せられる。薩摩藩と岩倉具視を中心に、土佐・安芸・尾張・越前の四藩も与したこのクーデターにより、徳川慶喜および会津・桑名両藩は御所から締め出され、新政府の樹立が宣言された。
この前夜より、ある部隊が行動を開始していた。陸援隊(鷲尾隊)である。近江屋事件で隊長・中岡慎太郎を喪ったこの浪人部隊は、田中顕助、大橋慎三(橋本鉄猪)、鯉沼伊織(こいぬまいおり)(香川敬三)、木村弁之進ら幹部によって統率されていた。
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