司馬遼太郎の初期作品「奇妙なり八郎」は、幕臣らと近づきになる際にも自らの佩刀「七星剣」の鑑賞という策を弄し、また浪士組結成とその京におけるあざやかな大転向を実行した「策士」清河八郎の綱渡りの生涯をえがいた七十枚の短編である。「奇妙なり八郎」とは板倉勝静の八郎評であった。
この小説の映画化が篠田正浩監督の『暗殺』(一九六四)で、主演丹波哲郎、妻の蓮を岩下志麻、伊牟田尚平を八郎に心酔する軽薄な若侍として蜷川幸雄が演じた。この作品もよくできていたが、藤沢周平は「策士」ぶりを強調する両者に対し、おそらく批判的だった。
清河八郎は北国の農民であり「孤士」であった。だからこそ策を弄さざるを得ず、雄弁を武器とした「扇動家」の相貌を帯びたのでもあるが、それに対する同情心が欠けているということであろう。
もうひとつ『回天の門』には刺激的な知見がある。
八郎と「虎尾の会」の同志には、横浜焼打ちと異人斬りの計画があった。それは文久三年四月十五日に実行されるはずであったが、その前々日の四月十三日、八郎は旧知の人に招かれ麻布一ノ橋の上ノ山藩邸に出向いた。相手は板倉勝静ら幕閣と関係のある人物だったから、弟子や同僚はみな止めた。少なくとも護衛をともなうべし、といった。しかし八郎は、あえて単身での訪問に固執した。
その日の朝、八郎はこんな歌を詠(よ)んで高橋泥舟に託した。
「魁(さき)がけてまたさきがけん死出の山 迷ひはせまじすめろぎの道」
まさに辞世の一首であった。
このとき八郎は、横浜焼打ちや異人斬りは、時勢に合わないどころか絶対に勝てない対外戦争を呼び込む行為だと認識していた。自らが発案し、同志を巻き込んで準備した計画をたやすく中止にはできないが、自分が横死すればそれは可能だ、と思い定めたのではないか。だとすれば八郎は、斬られるために一ノ橋(いまの港区麻布十番)へ出向いた。そう藤沢周平は考えたのである。
八郎の死から四カ月、文久三年八月十七日、天誅組が大和五条天領の代官所を襲い、代官らを殺した。だが翌日京都で「八月十八日の政変」が起こって天誅組は孤立、やがて壊滅した。指導者であった藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎は、翌月までに戦死または処刑された。藤本鉄石は遠い昔の旅の絵師、松本奎堂は昌平黌で八郎と同窓、吉村寅太郎は「虎尾の会」での知己だが、彼らもまた革命の奔流に巻かれて姿を没した「孤士」であった。
清河八郎は藤沢周平の好きなタイプの男とはいえないかも知れない。だが『回天の門』は、作家が万斛(ばんこく)の同情とともに刻んだ北辺の「孤士」の墓碑銘であった。
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